野の百合、空の鳥

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【俺ガイル完 11話】考察・解説「言葉」という「パルマコン」【後編】

【前編】

Ⅴ. 雪ノ下雪乃との関係

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「他の言い方を知らない」(『俺ガイル完』11話, 渡航, 小学館, やはりこの制作委員会はまちがっている。完, TBS, 2020)

ⅰ. 回りくどいやり方

「あいつと関りがなくなるのが嫌で、それが納得いってねぇんだ」*1そう言った比企谷八幡にできることは何だっただろうか。

八幡がとったのは、合同プロムを企画するという方法だった。一見実現できないような合同プロムを企画することで、以前プロムを成功させたということを建前にして、雪乃を責任者として引き立てたのだ。そして当然、八幡自身もそこに携わる。そうすることで関係は保てる。

なんとも回りくどいやり方だ。どうして八幡はそのような方法をとるのだろう?

 

ⅱ. 「そういう方法」

それは言うならば、八幡が「そういう方法しか知らない」*2からだ。

手練手管を使い、あらゆる手段を講じ、建前を準備するのが比企谷八幡という人間だ。

だから八幡は、肝心なところでも、まだ「そういう方法」を取り続ける。

 

ⅲ. 建前

「あれしか、お前と関わる方法がなかった」と言われて驚く雪乃に、八幡は「なんでもない放課後に、お前がいて欲しいって、そう言われてな」とここでもなお「建前」を言う*3

なぜそれが「建前」かと言えば、「本心」は先の場面で由比ヶ浜に告げた「俺はあいつと関わりがなくなるのが嫌で、それが納得いってねぇんだ」*4という言葉であるはずだからだ。

その後も八幡は依然として、「責任」とか「義務」といった言葉遣いをして、自分の「気持ち」をそのまま「言葉」で表現しようとはしない

 

ⅳ. 「感情」は言わない

あるいは「お前の人生歪める権利を俺にくれ」*5という肝心な言葉にすら、「権利」というどこか論理めいた言葉遣いがふくめられている。

もちろんそれも八幡の「本心」ではあるわけだが、しかしそれらは「感情」の言葉ではない

どうして八幡はそのような言葉遣いをし続けたのだろうか?

 

ⅴ. 言葉への批判意識

それは八幡が「言葉」に対して批判意識を持っているからだ。つまり、言うなれば「感情」を「言葉」に押し込めた途端に、それがある意味で「嘘」になるということを知っているからだ。

このことは以下のモノローグによく表れている。

言葉一つじゃ足りねぇよ。

本音も建前も冗談も常套句も全部費やしたって、伝えれる気がしない。

そんな単純な感情じゃない。たった一言で伝えられる感情が含まれているのはまちがいない。けど、それを一つの枠に押し込めれば嘘になる

だから、いくつもいくつも言葉を重ねて、死ぬほど理屈をこね回して、理由から環境から状況から全部揃えて、言い訳を潰して、外堀を埋めて、逃げ道を塞いで、ようやくここに至るのだ。

こんな言葉でわかるわけない。わからなくていい。伝わらなくても構わない。

ただ伝えたいだけだ。*6

そう、「言葉」というのは、「言葉」になり切らないような「感情」を殺してしまう「毒」である。

あることを「言葉」という「一つの枠に押し込め」ると、それはときに「嘘」になってしまう。

どういうことだろうか。

 

ⅵ. 「言葉」という「殺害行為」

拙文を何度も読んでいただいている方はもう聞き飽きているかもしれないが、ある対象を「言葉」にするということは、ある意味その対象を「殺す」ということでもある

例えば、仲の良い男女がいたとしよう。その男女は、非常に仲が良く、心が通じ合っており、しかし肉体関係などはなく、連れ添って遊ぶが、適度な距離を保ってもいる。

今、そういう男女の関係を「恋人」と名付けてしまったとする。そうすると、男女の間にあったかもしれない独自の関係は「死んで」しまう。そこにあった「言葉」にできなかった関係性は今、「恋人」という「枠」に閉じ込められ、そういう「枠」で理解される

つまり、「恋人」という「枠」に閉じ込めた途端、他人もその男女をそういう目で見始める。例えば、彼と彼女はキスをするだろうとか、デートをするだろうとか、「恋人」という「言葉」について回るものを勝手に想像するだろう

あるいは「恋人」という「言葉」は当事者たちすら毒す。つまり当事者たちも「恋人」と呼ばれるにふさわしい振舞いをし出す。そうなるともはや「恋人」以外の関係が「嘘」になる。そこにあったはずの、言いようがない関係性は、ここにおいて「殺害」される。

 

ⅶ. 「言葉」という「パルマコン」

しかしでは「言葉」を介さずにいられるかというと、そうではない。「言葉」にしなければ何も伝わらない

言い方を変えれば、「言葉」にして初めて伝わるものがある。だから「言葉」は「パルマコン」(【希 : pharmakon】ギリシア語で「毒」と「薬」の両義をもつ言葉)だ。「言葉」は「毒」であると同時に「薬」なのだ。

それを知っているからこそ八幡は、慎重に、とても慎重に「言葉」を使う。その結果が、「お前の人生を歪める権利を俺にくれ」という「言葉」なのだ。

そしてそれは雪乃も同じだ。「あなたの人生を、私にください」という雪乃は、「他の言い方を知らない」のだと言う*7

これが、今の彼ら彼女らにできる、精一杯の表現だ。

 

 

Ⅵ. 【追記9/20】由比ヶ浜との場面と雪乃との場面の比較

ⅰ. 類似と差異

最後に簡単に、由比ヶ浜との場面と雪乃との場面を比較してみたい。

思うに、由比ヶ浜との場面と雪乃との場面は構図が似通っており、その分、両者の違いが顕著になっているように思う。

それは具体的には、「ちゃんとできるようになる」ということを伝えた後の対応の違いとして表れてくる。

 

ⅱ. 「ちゃんとできるようになる」と伝える

由比ヶ浜との場面にしても、雪乃との場面にしても、「ちゃんとできるようになる」ということが伝達されている。

由比ヶ浜との場面では、八幡が由比ヶ浜に対して、「いつかもっとうまくやれるようになる。こんな言葉や理屈をこねくり回さなくても、ちゃんと伝えられて、ちゃんと受け止められるように、たぶんそのうちなると思う」*8と伝える。

それに対して、雪乃との場面では、雪乃が八幡に対して、「私はちゃんとやる。もっとうまくできるように、きっとなるわ……」*9と伝える。

まずこの「ちゃんとできるようになる」を伝えるという構図は似通っている。

 

ⅲ. 伝え手と受け手

要するに「ちゃんとできるようになる」というのはどちらの場面でも自立宣言(依存解消宣言)なわけだが、その場合の誰から誰へという、伝え手と受け手は異なっている。

すなわち、由比ヶ浜との場面では「ちゃんとできるようになる」の伝え手は八幡、受け手は由比ヶ浜だ。一方雪乃との場面では、伝え手は雪乃、受け手は八幡だ。

そしてさらに、「ちゃんとできるようになる」への対応も異なってくる。

 

ⅳ. 引き留める

由比ヶ浜との場面では、八幡が「ちゃんとできるようになる」と伝えた後、「待たなくていい」とも伝えるのだが、それに対して由比ヶ浜は「なにそれ、待たないよ」と言って八幡を引き留めることはしない

一方、雪乃との場面では、雪乃が「ちゃんとできるようになる」と伝えると、八幡は「手放したら二度と掴めねぇんだよ」と言いながら雪乃を引き留める

つまり単純なことだが、「ちゃんとできるようになる」と言われた受け手が、伝え手を引き留めるか否かが異なっているのだ。

 

ⅴ. 「また始める」ということ

要するにここで行われているのは、「また始める」*10ということ、すなわち関係性を清算した上で新たに始めるということだ。

彼ら彼女らの関係性はずっと継続しているように見えて、節目節目である種のリセットが行われている*11

だからこれはひとつの「終わり」であってすべての「終わり」ではない。その意味で『俺ガイル』は「未完」であり、だからこそ「新」が始まる余地があるのだ。

 

 

Ⅶ. 彼ら彼女らのふるまいをどう評価するか

ⅰ. 一歩引いて見てみたい

以上で、ひとまず11話における比企谷八幡と由比ヶ浜結衣との関係、比企谷八幡と雪ノ下雪乃との関係があらかた整理できたかのように思う(雪乃側からのアプローチがやや足りていないが)。

それはそれでよいことにして、以下ではそれらを一歩引いた立ち位置から眺めてみたい。つまり、彼ら彼女らがそのように振る舞ったとして、ではそれはどう評価できるだろう?ということを考えたいのだ。

具体的に言うと、彼ら彼女らの「依存」関係は解消したのか?という問いや、雪乃は結局「自立」できたのか?、あるいは、八幡は「本物」を手にすることができたのか? といった問いが立てられるだろう。

これをきちんと検証したい。

 

……と思ったのだが、どうやらこれは最終回が終わってから見た方がよさそうだ、と今書いてて思った。

そういうことなので、以上の問いの検証は次回に回したい。私も当然以上のような問いについて考えるが、読者の方々におかれても以上のような問いを念頭に置いて最終回を見ると面白いかもしれない。

泣いても笑ってもあと1話。『俺ガイル完』はそこでおしまいだ。

 

しかし矛盾するようだが『俺ガイル』は終わらない。なぜなら『俺ガイル』は「未完」だからだ。

『俺ガイル』が「未完」とはどういうことか。前述した意味でも「未完」であるが、しかしまた違った意味でも『俺ガイル』は「未完」である。それはあるいは最終回を見ればわかるかもしれない。

しかしひとまずは、彼ら彼女らの「終わり」をひとつ、見届けたい。

最後になってしまったが、ここまで読んでくださった方々にお礼申し上げて、本稿を閉じる。

 

<参考文献等>

渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。①-⑭』(小学館 ガガガ文庫、2011-2019)。 

アニメ『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(2013)、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。続』(2015)、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。完』(2020)。

<次回>

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*1:渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』小学館、2019年、334頁。以下アニメ『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。完』11話について考えるために、その原典である小説『俺ガイル』を適宜引用する。なお小説『俺ガイル』からの引用は巻数を丸数字で略記し、頁数のみ記す。

*2:⑦253頁参照。当然ながら⑦時点の八幡のやり方と⑭時点での八幡のやり方は異なっている。その最たる違いは、そこに「本物」を求める信念があるか否かの違いである。⑦では自分の信念を「嘘」でゆがめ、「ぬるま湯」に浸かり続けることを選んだ。それとは対照的に、⑭では「本物」を求めて行動した。しかしながら、八幡が遠回しに、「感情」をストレートに伝えずに自己表現するやり方はかわっていない。それをここで「そういう方法」と呼んでいる。しかしながらその「方法」というのは相手にも依存しており、八幡はここで相手が雪乃だからこそ、「そういう方法」をとったのだとも考えられるということを以下で考察してゆく。

*3:⑭391-392頁。

*4:⑭334頁。

*5:⑭395頁。

*6:⑭398頁。太字は筆者による。

*7:⑭400頁。

*8:⑭340頁。

*9:⑭392頁。

*10:「……馬鹿ね。終わったのなら、また始めればいいじゃない。」(③239頁)参照。彼ら彼女らは幾度か「また始める」ということを行ってきた。

*11:例えば③巻末、⑥巻末、⑨「本物」発言等。