野の百合、空の鳥

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【俺ガイル完 9話】考察・解説 「エプロン」と「コーヒー」の「解釈」について

Ⅰ. はじめに

ⅰ. あらすじ

雪乃に「由比ヶ浜さんのお願いを叶えてあげて」と言われた八幡は、由比ヶ浜に願い事を尋ねる。

雪乃の手伝い、小町のお祝いなど……、「したいこと」を挙げていった由比ヶ浜は最後に「ヒッキーのお願いを叶えること」を願う。

手始めに由比ヶ浜家で小町へのプレゼントを作った八幡は、やがて来る終わりに想いを馳せるのだった――

 

 

Ⅱ. 「ありえない想像」

ⅰ. 「ありえない想像」

由比ヶ浜家でお菓子作りを終えた八幡は、道すがら以下のように独白する。

彼女の願いを一つ一つ叶えながら、日々を繋いでいくことができるなら。

そんな、ありえない想像をした。

(渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』162頁)

どうしてそれは「ありえない想像」なのだろうか?

それはまず、八幡がこの関係性、つまり由比ヶ浜との今のような関係性はいつか終わるだろうことを確信しているからだろう。

 

ⅱ. 叶えることもできるはず

しかしよく考えてみるとそれはおかしいように思える。なぜなら、八幡は由比ヶ浜の願いを一つ一つ叶えながら、ずっと日々一緒に歩んでゆくことが、可能ではあるはずだからだ。

つまり例えばだが、八幡と由比ヶ浜が生涯のパートナーとなり、互いが互いのために生きることを誓えば、ずっとそういう日々が続いていくはずである。

しかしそれはありえない。というより厳密には八幡がその可能性を「ありえない想像」と言って否定してしまっているのだ。

ではそれはなぜだろうか?

 

ⅲ. 三人

端的に言えば、それは雪乃がいるからだと考えられる。

雪乃がいて、八幡がいて、由比ヶ浜がいて、三人で奉仕部の関係性を築き上げてきたからこそ、その関係性を清算するのはその三人でなければ道理にはあわない。そもそも八幡が今由比ヶ浜の願いを聞いているのも、雪乃から頼まれたからである。

もちろん八幡や由比ヶ浜が悪人なら雪乃のことなど放っておくのだが、幸い彼らは悪人ではない。反対に言えば、八幡や由比ヶ浜はそれだけ雪乃のことを大切に思っているということだろう。

 

Ⅲ. 由比ヶ浜のエプロンについて

ⅰ. 「ずるい気がするから」――由比ヶ浜の倫理――

そのように、「三人」の関係性を重視する彼ら彼女らの道義的な側面はたびたび描かれてきた。

印象的なのは11巻(アニメ2期12話)で、由比ヶ浜が「ずるい気がするから」というシーンである。

バレンタインイベントの帰り際、雪乃を家まで送った後、八幡は由比ヶ浜も送ろうとする。そこで由比ヶ浜が言ったセリフがその「ずるい気がするから」というセリフだ。

ちょっと二人で帰るくらい気にしなくてもいい気がするが、それでも由比ヶ浜は雪乃を抜きにして八幡と二人きりになることを断る。

もちろん文脈的に雪ノ下母の襲来があって気持ちが落ち込んでいるということもあるが、それにしても由比ヶ浜はかなり道義を重んじていると言えるだろう。

 

ⅱ. エプロンが異なる……?

そしてそれを踏まえると、少し気になる点が出てくる。というのはお菓子作りのときに由比ヶ浜がしていたエプロンのことだ。

これについて、1期や2期で用いられていた雪乃からもらったエプロンとデザインが異なるのではないかという指摘があり、それは実際その通りである。

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雪乃からプレゼントされたピンクのエプロン(上)(1期6話より)、2期で着用しているエプロン(中)(2期12話より)、今回していたエプロン(下)(3期9話より)(渡航, 小学館, やはりこの制作委員会はまちがっている。, やはりこの制作委員会はまちがっている。続, やはりこの制作委員会はまちがっている。完, 2013-2020)

したがって一見すると由比ヶ浜は、1期2期では雪乃からもらったエプロンを着用していたが、3期9話でお菓子作りをしている際にはそれを着けていないというように思える。

しかしながら、原作14巻においては、このお菓子作りをしている際のエプロンが雪乃からもらったものであるというような描写が存在する。

由比ヶ浜はなんかふわふわぽわぽわしたガーリーなエプロンをしゃきっと身に着けていた。いつだったか、雪ノ下と一緒に出掛けた先で買ったものだ。店先に吊るされていたときと比べれば、いくらか使い込まれた様子は見えるものの、それでも丁寧に着られていることがよくわかる。

(渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』141頁。太字は筆者による。)

これはどういうことなのだろうか?

 

ⅲ. 解釈に関わる問題

この矛盾を解消する前に断っておきたいのは、エプロンの違いというのは解釈に関わる重要な問題だということである。

すなわち、もし由比ヶ浜が雪乃からもらったエプロンを八幡と二人きりのときにあえて着けていないのなら、そこから様々な解釈が可能になる。

例えば、八幡と二人きりのときにエプロンを着けないということは、二人きりの関係に雪乃のことを思い出すようなものを持ち込みたくない、ひいては二人の関係に雪乃を持ち込みたくないという解釈が可能になる。

しかしそう解釈することは、雪乃からもらったエプロンを着けている場合に可能となる解釈、すなわち八幡と二人きりでいたとしても雪乃の想いを尊重したいという解釈とは真っ反対の解釈になってしまう

したがって、ここで由比ヶ浜が着けているエプロンが雪乃からもらったものなのか否かという問題は、かなり重要な問題であると言える。

 

ⅳ. 原作14巻のデザインとは一致?

では結局エプロンは雪乃からもらったものなのか、そうではないのか、どっちなのだろうか?

まず一つ重要な指摘をしておかねばならない。というのは、アニメ3期9話のその当のエプロンは、原作14巻の挿絵のデザインとは一致するということである。

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由比ヶ浜のエプロン姿(渡航 著『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』、挿絵 : ぽんかん⑧、小学館、2019年、143頁)。

もちろんモノクロなので色が一致していると言うことは不可能だが、デザインは同様である。

そして原作を尊重すれば、この挿絵のエプロンは原作通り雪乃からもらったものなので、アニメで描かれているエプロンも雪乃からもらったものということにはなりうる

 

ⅴ. 結局何なんだ?

では結局どうなのだろうか? それは雪乃からもらったものなのか?

先に筆者の見解を述べると、1期2期と3期でデザインが異なるのは、14巻で初めて描かれた原作(ぽんかん⑧)のエプロンデザインを尊重して取り入れた結果、それまでのアニメのデザインと齟齬が起きてしまっただけで、結局3期9話のエプロンは雪乃からもらったものだと考える

現実的な問題、つまりアニメスタッフがどういう制約の下に置かれていて、デザインをどう決定したのかというのは知り様がない。したがって、その問題は私個人には解決不可能である。

しかし解釈の側面から考えると、やはりここで由比ヶ浜は雪乃からもらったエプロンをするだろうと考えられる。というより正確には、八幡と二人きりのときにわざわざ雪乃をそこから排除するような行動をとらないだろうと考えられる。

なぜなら、由比ヶ浜は前述した「ずるい気がする」と言っていた場面にも見受けられるように誠実な人間だからだ。彼女はかなり倫理的で、道義に適わないような行動はしないと考えられる。

したがって、ここでも雪乃がおらず八幡と二人きりだからといってわざわざ違うエプロンを着けるというような「ずるい」まねはしないと考えられる。

 

Ⅳ. 原作と異なる(ように見える)描写について

ⅰ. 「解釈」しなければ描けない

エプロンの例のように原作とアニメとが異なる(ように見える)場面というは、実はそれなりに多く見受けられる。

それは小説とアニメーションが文字と映像という異なる媒介を用いているから当然のことであって、ときには小説を「解釈」しなければ映像にできないこともある。

 

ⅱ. 「缶コーヒー」

例えば3期8話冒頭で、八幡と葉山はそれぞれマッ缶とブラックコーヒーを飲んでいるのだが、原作ではそれらは「缶コーヒー」としか描写されていない*1

つまりそこには「八幡はこういうときマッ缶を飲むだろうし、葉山はブラックだろうな」という解釈が挟まれているのである。

もちろんそれには作者の指示があるのかもしれないが、それにしても一度「缶コーヒー」と書いたものの内実を「解釈」し直しているのだから、それも「解釈」の一つであると言える。

とにかく、アニメにするときには対象そのものを物理的に描かねばならないのだから、「缶コーヒー」が何かはっきりさせなければならない。そういう制約などがあって、どうしても「解釈」が必要になってくる。

 

ⅲ. ひとつの「解釈」と受け取ってみる

そう考えるとアニメを作るときには他の多くの「解釈」が積み重なることになり、アニメーション全体がひとつの「解釈」だと言えるのではないだろうか。

もちろん、だから良いとか悪いとかいうことはなく、アニメーションはアニメーションとして原作と切り離されてあるわけで、もちろん「原作」ありきという視点から見ればそれは「解釈」なのだが、他方でアニメーションはアニメーションとしてひとつの「作品」でもある

ともかく、ここで言えるのは(これは筆者自身への戒めも兼ねているのだが)、アニメーションと原作とを過度に混同すると誤読する可能性があるので、アニメーションを原作と比較して読む場合には、アニメーションがひとつの「解釈」であると受け取ることができるということである。

 

 

Ⅴ. 「コーヒー」について

ⅰ. 冒頭の「コーヒー(カフェオレ?)」

以上のことを踏まえて改めて9話を見てみると、やはり「コーヒー」の描写に「解釈」が挟まれているということがわかる。

まず9話冒頭で、八幡はほとんどブラックに近いコーヒー(あるいはカフェオレ?)を飲んでいるが、原作では「俺は炬燵の上の牛乳に手を伸ばし、マグカップにとぷとぷ注ぐ」という描写があるがアニメにはないため、このシーンはアニメとやや異なると考えられる*2

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ブラックに近いコーヒーを見つめる八幡(『俺ガイル完』9話, 渡航, 小学館, やはりこの制作委員会はまちがっている。完, 2020)

この「解釈」はかなり意図的と考えられる。なぜなら、アニメ9話では小町がコーヒーに砂糖を入れて甘くした目の前で八幡が黒いコーヒー(あるいはカフェオレ?)を見つめているのだが、小町がコーヒーに砂糖を入れる描写に至っては原作には全くない描写だからである(むしろ小町の飲んでいるものは「やや苦めのカフェオレ」とされている)。

すなわちアニメのこの場面は、小町が「甘そう」なコーヒーを飲んでいるのに対して、八幡は「苦そう」なコーヒーを飲んでいるという対比になっている。

ではなぜこのような「解釈」をしたのか? 考えられるのは、単純に、八幡がここで「苦々しい」気持ちだったということである。奉仕部の関係で「いろいろあった」その「いろいろ」に想いを馳せていて、「苦々しい」想いをしているという「解釈」ならしっくりくる。

 

ⅱ. 公園での「ブラックコーヒー」

さらに以上のことを踏まえると、由比ヶ浜との公園でのシーンの「コーヒー」についても「解釈」の「解釈」ができる。

まず一段階目として、原作では「缶コーヒー」とされているものがアニメでは「ブラックコーヒー」と解釈され、描写されている*3

そしてこれは前述したことを踏まえて、八幡が「苦々しい」想いをしているからではないのかと「解釈」が「解釈」される。実際八幡は由比ヶ浜の「お願い」を聞き出すことに躊躇しており、「苦々しい」想いが感じられる。

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上蓋の淵に溜まるコーヒー(『俺ガイル完』9話, 渡航, 小学館, やはりこの制作委員会はまちがっている。完, 2020)

さらに上蓋の溝には今にもこぼれそうなコーヒーが溜まっており、その少し嫌な感じが、そのまま八幡の感じている少し嫌な感じを代弁しているようにも思える。

以上のように考えると、ここで八幡がいつも飲んでいるマッ缶ではなくブラックコーヒーを飲んでいるのも納得できる気がする。

 

ⅲ. <9/7 追記>原作で「缶コーヒー」が持つ意味合い

言い忘れていたのだが、公園における「缶コーヒー」は、原作では異なる文脈を持ち、したがって異なる意味合いを持っている。

具体的には、「缶コーヒー」が「冷たい」と表記されていることが重要である。なぜなら、14巻においては雪乃との関係が膠着したままであることが(とくに「指先」の)「冷たさ」として表現されているからである。

先に結論から言えば、「冷たさ」というのはもちろん雪乃との関係性が膠着していることのメタファーであり、その証拠に、雪乃との関係が改善した後には「あの日からずっと冷えきっていた指先には、ちゃんと熱が通っている」*4と、「指先」が「熱」を取り戻している。

 

そして件の公園のシーンでも、八幡は「缶コーヒー」を「冷え切ったままの指先に熱を込めるように、ぎゅっと握りしめる」*5

つまりここでも八幡の指先の「冷たさ」は継続しており、だからこそ「缶コーヒー」は「冷たい」のである。というのは、もしここで「缶コーヒー」が温かかったなら、雪乃との関係性改善という事態より先に「缶コーヒー」が八幡の指先を温めてしまうことになり、メタファーがうまく機能しないからだ。

したがってあらかじめ「缶コーヒー」が「冷たい」と表記されることで、春先とはいえまだ寒さの残る日に、冷たい「缶コーヒー」に指先でふれるあの「冷たさ」が想起され、読者としても八幡と同じようなどこか冷えたような思いを感じることができるのである。

 

原作では以上のような「冷たさ」という文脈が重視されるため、それに比べれば「缶コーヒー」がマッ缶なのかブラックなのかということはさほど重要ではない。

もちろん、アニメではそこに意味を付与することが可能なのであって、それはまた別の話として議論すべき問題である。

以上のことを付言して追記とする。

 

おわりに

今回は9話を考察・解説した。

予想以上にややこしくなってしまったが、とくに「解釈」のくだりは重要なのではないかと思う。

ただもちろん言って見ればそれも筆者の「解釈」にすぎないわけで、アニメーションをひとつの「解釈」と考えなければならないという絶対的な理由は何もない。

とにかく、それは特に筆者自身が気を付けなければならないことである。今後も注意したい。

それはそれとして、アニメーションを作るというのは本当にすごいことだと思うし、『俺ガイル』は本当に毎週楽しみにしている。

アニメもいよいよ佳境に入るのでこれからもどのような演出がなされるのか等、注目して見てみたい。

なお、「コーヒー」に関してはTwitterでフォロワー様のご助言をいただいたので、末筆ながら改めてお礼申し上げたい。

<参考文献等>

渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。①~⑭』(小学館 ガガガ文庫、2011-2019)

アニメ『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(2013)、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。続』(2015)、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。完』(2020)。

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*1:渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑬』251頁参照

*2:渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』19頁参照

*3:そもそも原作では、よく「マッ缶」が区別されて用いられているが、しかし前述したように、アニメでは原作では「缶コーヒー」とされているものが「マッ缶」に成り代わることはある。さらに付け加えるならば八幡はブラックコーヒーをまったく飲まないわけではなく、アニメでは例えば2期3話の修学旅行後の学校の場面や2期8話の平塚先生との対話の場面でブラックの缶コーヒーを飲んでいる。したがってやはり八幡のコーヒーの選択というのは八幡の気分や感情に左右されるものだと考えられるが、行き詰ったときやつらいときもマックスコーヒーを飲んでいることがあり(例えば3期5話)、この演出全体について議論するにはさらに精査する必要がある。

*4:渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』404頁

*5:渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』47頁