野の百合、空の鳥

アニメ・漫画・文学を「読む」

2021年をふりかえって

現実と虚構、リアルとフィクション

「これはパイプではない」

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René Magritte, La Trahison des images

この一枚から始めよう。

《イメージの裏切り》と題されたルネ・マグリットのあまりにも有名なこの絵画は、なんとも逆説的な場をそこに展開している。

描かれたイメージは、明らかにパイプのように「見える」。にもかかわらず、キャプションによれば「これはパイプではない(Ceci n'est pas une pipe)」。

なるほど、たとえばそれがパイプに見せかけた "急須" であるとしたら、またはパイプ型の "じょうろ" だとしたら、たしかにそれはパイプではない。あるいはパイプでなければいいのなら、もっと想像力を働かせて、それはパイプの形にされた人間であるとか、アライグマの進化系だとか、そういうことを言ってもよいはずだ。けれどそれは、仮にキャプションを "信用すれば" の話である。

そもそも「これ(Ceci)」という指示語がそこに描かれたイメージを指すとは誰も言っていない。つまり「これ(Ceci)」という "語そのもの" が「パイプではない(n'est pas une pipe)」と言っているのかもしれないし、指示語である「これ(Ceci)」が「これはパイプではない(Ceci n'est pas une pipe)」という一文を指しているとすれば、「これはパイプではない(Ceci n'est pas une pipe)」という文章自体が「パイプではない(n'est pas une pipe)」と言っているのかもしれない*1。その場合、キャプションはイメージを殺しているのか、あるいはイメージがキャプションを殺しているのか、考えたくなる*2

とすれば、私たちを攪乱する元凶は明らかであろう。「これはパイプではない(Ceci n'est pas une pipe)」というキャプションがそれだ*3。このキャプションがなければ、多くの人は――何かとケチをつけたがる人を除けば――、そのイメージをより自由に受け取ることができるだろう。

 

『ルックバック』をめぐって


ルックバック (ジャンプコミックスDIGITAL)

さて、どうして最初にこれを持ち出してきたかといえば、それはマグリットのこの絵画が切り開く問題系に、さらに乱雑さと複雑さを増した出来事が2021年に起こったからである。つまり、『ルックバック』をめぐる一連の "事件" が。

『ルックバック』の場合、事情はもっと複雑だ。漫画のなかには、《イメージの裏切り》のようにご丁寧に「これはパイプではない」と、絵とキャプションがセットで描かれることはない。そこにはただ絵とセリフ——そしてごく少ない(一説によれば3つしかない)描き言葉(効果音)――が描かれるのみである。

あるいは事情は反対だ。つまり、《イメージの裏切り》が「これはパイプではない」という否定形がエクスキューズをとるのに対し、『ルックバック』は「★この作品はフィクションです」という肯定形が、かろうじて単行本のラストページを飾るのみである――さらに問題含みなことに、「ジャンプ+」掲載時のヴァージョンでは、「★この作品はフィクションです」というクリシェさえ、「ルックバック」という作品ページの枠組み内には見当たらなかったわけだが――。

そして何より、そこに描かれた表象が、ある特定の事件、人物、病気を "想起させる" ことは、たいへん取り沙汰された。筆者としても、一連のムーブメントに少なからず思うところがあり、それについては別のところで話したり、書いたりした。

それについてまたここで詳細になにか書くつもりはないけれど、想うのは、2021年はその一連の "事件" から波及してくるテーマに、大いに影響を受けたということだ。そのテーマとは、現実と虚構、リアルとフィクションというテーマだ。

『輪るピングドラム』、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』、『劇場版 少女歌劇レヴュースタァライト』、『オッドタクシー』、『Sonny Boy』、『ブランクスペース』、Vtuber(とりわけ黛灰――昨年だが出雲霞も――)、Project:;COLD、そして藤本タツキ……今年印象に残ったコンテンツを挙げてみると、みな一様に、現実と虚構、リアルとフィクションというテーマに、それなりの仕方で関連しているように思われる。

結論を先取りすれば、現実と虚構、リアルとフィクションは、くっきり分けられるものではなく、互いが互いに影響し合う、戯れのようななにかだと思うのだけれど……あまり書きすぎると止まらなくなるのでひとまず措こう。

ともかく、だから今年は、去年同様に印象に残った作品をふりかえるのだけれど、現実と虚構、リアルとフィクションというテーマを一応中心軸に据えてふりかえってみたいと思う。もちろんいつもながらわき道にはたくさん逸れるし、なんなら複線ドリフトばりに急旋回するかもしれないけれど、年末雑記の御愛嬌、ということでご容赦願いたい。

なんだか硬くなってしまったけれどぜんぜんそんなテンションではない。し、いつも通り今年良かったものをおすすめするだけの記事なので、みなさんもお気軽に読んでいただければと思う。

では「なんとかやっていく」*4をやっていこう。

 

アニメーションについて

今年はあまり見られなかったなあ、と思っていたけれど、平均したら毎クール15本くらいは見ていた。上半期と、下半期フリーになって以降、ブーストしたように思われる。

アニメーションの良さに純粋に感動した『無職転生』、コンテキストがあまり分からない筆者でも良質なエンターテインメントとして楽しめた『ゴジラ S.P』*5、非常に丁寧なつくりに毎週眼が離せなかった『王様ランキング』など、楽しい作品は数多くあった。

話数単位では*6『SSSS.DYNAZENON』第10回「思い残した記憶って、なに?」『古見さんはコミュ障』コミュ01「喋りたいんです。」が印象的だった。

前者は、言わずと知れた名アニメーター五十嵐海回で、本当に全部が良かったし、誇張抜きに20回は見た。ひとつの場面でも語りだそうものなら止まらなくなってしまうのであえて語らないが、基本的にはどのカットを切り取っても絵になる。総括して言えるのは、やはり五十嵐氏は「線」のアニメーターなのでは、ということと、この回は――『SSSS.GRIDMAN』第9回「夢・想」が "左右の動き" を基調としていたのに対し――、"手前と奥" という、奥行きのある動きを巧みに利用していたということだろう。『SSSS. GRIDMAN』第9回「夢・想」も件の五十嵐回なのだが、ぜひこれと併せて見ていただきたい逸品。

後者――『古見さん』1話――は、作品として完成しており、ほんとうにもうこれで終わってもいい、という感じだった。印象的だったのは、それが "アニメーション" にもかかわらず、コマ枠や描き文字(効果音)といった――それこそ "キャプション" なのである!―― "マンガ的" な記号が氾濫していたことで、とりわけ文字をつかった表現がアニメーションに革命的な作用を及ぼしていたように思う*7。あえてひとつ取り上げるなら、主人公の只野が回想するシーンなのだが、注目すべきはその回想が教室の窓枠ごとに区切って投影されていることで、つまり窓枠がコマ枠に成り代わっているということである。この演出には感服した。

あるいは今年はアニメ映画にも大きく影響を受けた。わけても『シン・エヴァンゲリオン劇場版』、『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』、そして『劇場版 少女歌劇レヴュースタァライト』は、忘れがたい劇場体験となった。この三本を劇場で見おおせたことは、(やや大袈裟に言えば)一生の宝となることだろう。

さて、もうだいぶ語ってしまった感があるが、しかしわけても印象に残った作品というのは別にあるので、それを以下3作品挙げたいと思う。

 

1/3. Sonny Boy

2021年、この作品ははずせない。ほんとうに、心からおすすめする作品。

夏休み、中学三年生の長良たちが学校ごと異次元に「漂流」してしまって……という筋が一応あるが、基本的には単話ごとにひとつのストーリーがある。ショートショートみたいなものをイメージしてもらえれば、それに近いだろうか。

物語のトリック、つまり次元を移動するような点については量子力学が背景にあるのだが、はっきり言ってしまえばそこらへんは分からなくてもよいのであって、どちらかと言えば半ば文学的なストーリーの方に圧倒させられる。

これもまたどの話を取り出してきても語ることがたくさんあるのだが、ひとつ挙げるなら筆者の場合は、第6話『長いさよなら』――ただちにレイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』を想起するわけだが――をモロにくらってしまった*8。この回は「卒業式」が執り行われるのだが、そこに描かれているのも、文字通り「卒業」というテーマだろう。いったい何から「卒業」しようというのか。それはご自身の眼でたしかめてもらいたい。

 

2/3. ホリミヤ

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なぜいま『ホリミヤ』?と思う方もあるかもしれない。というのは、原作である『堀さんと宮村くん』は14年前、2007年に始まったウェブコミックだからだ。その後単行本化、マンガ化、OVA化などがあり、厳密に言えば本作は商業マンガ化した『ホリミヤ』をアニメーション化したものである。

筆者が本作に注目したのは、何よりも大好きなアニメーター石浜真史が監督を務めているからであり、したがって監督が絵コンテ演出を務める第1話および第13話、そして何より職人芸であるオープニングアニメーションは必見である、と言いたくなる(し、実際そうである)。

のだが、全編を通して見ると、基本的にかなり水準の高いアニメーションであることが分かる。「微炭酸系」などとも称される本作は、高校生の、言ってみればかなり「若い」日常が描かれるのだが、――ストーリー状は外せない甘酸っぱさは除くとしても――不要な臭みはうまく毒抜きされているように思う。

そしてもし、もう少し炭酸の強いものを摂取したくなったら、原作を見られるとよい。とりわけ「※」のついている話は「炭酸強め」なのだが、しかし初見から何年も経っているいまでも何か想う。筆者としては119「ノンコミタル」に端を発する石川と吉川の一連のなにかに、どうしても惹かれてしまう。

原作はこちらから↓

dka-hero.me

高校生たちの淡い日常を摂取したくなったら、ぜひ見てほしい作品。

 

3/3. オッドタクシー

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もう(ここで改めて薦めなくても)いいだろ、みたいな感じもあるのだけれど、でもこれを挙げないのも違うような気がして。

これについてはネタバレになるので何も言えないのだが、それこそ現実と虚構、リアルとフィクションという感じがあり、それについては考える余地が大いにある。

筆者としては、この問題――動物たちと「まなざし」が問題になるということ――に関してたとえば、Jean-Christophe Bailly, Le Versant animal, Bayard, Paris, 2007(ジャン=クリストフ・バイイ『思考する動物たち人間と動物の共生を求めて』石田和男、山口俊洋訳、出版館ブック・クラブ、 2013年 )などを思い出さないわけにいかないのだが、やはりネタバレになって何も言えないので、代わりにこの本について少し謂おう。

バイイは動物との印象的な体験として、夜、ドライブのさなか、一匹のノロジカと並走した(バイイは車に乗っていて、走るノロジカを追いかけた)体験について語る。注目すべきは、そのときバイイが、「眼」でもって、動物たち(の世界)に触れた、と語ることである*9。「眼」で触れる、とはどういうことか。バイイはその体験についてこう語る。

ノロジカは彼の夜のなかにいて、私は私の夜のなかにいた。われわれはどちらも独りぼっちだった。けれども、あの追跡のさなかに私が触れたのは、まさにもう一つの夜だった。ノロジカの夜が私のもとにやってきた。それは、零れ落ちたのではなく、束の間授けられたものだ。あの瞬間はだから、別の世界と向き合っていたのである*10

この「もう一つの夜」に「眼」で「触れる」ということ、この束の間の交わりが、あるいはそれとは別種なのだがしかしそれと比較したくなるような体験が、『オッドタクシー』の物語のなか、あるいはそれを "観賞する" → "観照する" ことにあると思うのだが……と言ってもなにも伝わらないような気がしたのでもうやめておくが、いつかこれについても何か書ければなあ、と思う。

最後に、やっぱりこれについて多くの示唆を与えてくれるのは――バイイがそうであったように――リルケ『ドゥイノの悲歌』であるように思うから(ちなみに『ドゥイノの悲歌』は幸運なことに岩波文庫で読める)、最後にそれをメッセージとして、本章の結びとしたい。


ドゥイノの悲歌 (岩波文庫)

あるいは動物が、黙って目を瞠るとき、そのまなざしは静かに私たちを貫いている(リルケ『ドゥイノの悲歌』「第八の悲歌」)*11

 

マンガについて

今年はたくさん読んだ気がした。ジャンプ購読に加え、コミックDAYSもっとプレミアム再開、コミックビーム購読開始が功を奏したように思う。とくに、もう何度も言ってしまっている気がするが、コミックDAYSもっとプレミアムは月額960円でマガジンやアフタヌーンフレンドなど、講談社系の漫画が全部読み放題になるのでよい。ただしほぼ毎日更新されるので生活は終わる。

今年印象に残った作品としては、講談社系なら『友達として大好き』(昨年紹介し今年完結した)、『青野くんに触りたいから死にたい』(このマンガはずっとすごい)、『スキップとローファー』、『はしっこアンサンブル』、『ワンダンス』、『虎鶫』といったあたり。

それらよりもう少し印象的だったものとしては、『国境のエミーリャ』、『スインギン・ドラゴン・タイガーブギ』、『世界は半分になった』、『ブランクスペース』、『フールナイト』がある(このなかで取り上げるなら『ブランクスペース』1巻は圧巻だった)。あるいは森田るり『自転する彼女』も、あの『我らコンタクティ』の森田るい帰還としても印象的だったし、縦スクロールのマンガとしておもしろい試みをしていると感じた。

また今年は torch comics のヤバさに気づいた年でもあった。とりわけ『宙に参る』、『NMCT』、『アントロポロセンの犬泥棒』、『空飛ぶ馬』、『奈良へ』には大いに刺激を受けた。正直 torch は全部おもしろいので、全部読んだほうがよい。

さらに印象的だった作品としては、『望郷太郎』、『SAKAMOTO DAYS』、『レッドフード』、『東京ヒゴロ』、『ひやらすみ』、『EVOL』、『高丘親王航海記』、『スイカ』、『生き残った6人によると』がある。

『望郷太郎』はイメージとしては『ヒストリエ』『ヴィンランド・サガ』みたいな感じなのだが半軍記ものみたいな感じでずっとおもしろく、『SAKAMOTO DAYS』は圧倒的にマンガ・アクションが巧く、『レッドフード』はラストの展開に惹かれ、『東京ヒゴロ』はラストのおばちゃんの話がすこぶる良く、『ひやらすみ』はほんとうに良いマンガという感じで、『EVOL』はすさまじいアメコミ感と絵に感動し、『高丘親王航海記』は最後まで全部良く、『スイカ』は最高のホラーギャグであり、『生き残った6人によると』は線の作家がストーリーで新鮮な風を吹かせていた。

以上のような作品は、ほかの多くの人も薦めているような気がしたので、筆者としては以下の3(4)作をとくにおすすめしたい。

 

1/3. 『教室の片隅で青春がはじまる』/『今夜すきやきだよ』


教室の片隅で青春がはじまる (ビームコミックス)

二重三重の意味で「良い」マンガ。両作ともに谷口奈津子の作品だが、どちらも本当にすばらしい。

『教室の片隅で青春がはじまる』は、主人公の吉田まりもが「オタクであることを隠している子」、「SNSで理想の自分を演じる子」、「自分が特別だと信じて疑わない子」、「イイ男とヤることで、自分の価値を確かめる子」など、「教室」のなかのさまざまな人物と関わり合ってゆくオムニバスストーリー。

それぞれの葛藤や苦悩が、絶妙にうまくひとつの物語に収まっている。短い話のなかに、よくこんなにいろんな「要素」を組み込めるなあという、そのたくみさにまず感動する。話の運びも「安心」して見ていられるものだし、しかしその「安心」とは何だろう、というところに、逆に切り返してくる。それが良い。


今夜すきやきだよ (バンチコミックス)

『今夜すきやきだよ』は、まずタイトルが反則である。何を隠そう筆者もそのタイトルの良さを友人に力説されて買ったのだが、たしかに、もうこれだけで良いじゃない、という感じがする。

中身もとても良かった。もちろん、細かいことはいろいろ考えて尽きるものではないのだけれど、でもやっぱり一話一話にこれだけ「要素」を組み込めるのが巧い。

ストーリーを言うのを忘れていた。こちらは「アラサー女子の二人暮らし」が主軸となっている。この筋を言うと、なんとなくいろいろな想像が働かせられる気がするけれど、でも、たぶん想像しているよりも良い読書体験が得られるはずだ。

うーん、やっぱり何にしてもタイトルが良い。「今夜すきやきだよ」。良い。

 

2/3. 『偽物協会』


偽物協会(1) (サンデーうぇぶりコミックス)

お次は白井もも吉『偽物協会』。こちらは一風変わった作品。

「偽物協会」、そこは「本物(ふつう)」の枠からはみ出てしまった「偽物」たちの集う場所。「脱毛したいサボテン、鳥になりたい石ころ、人の耳を嫌うイヤフォン」等、多種多様な「偽物」たちが目白押し。主人公の女の子は、なんと不安になると体が毛布になってしまう――文字通り本当に物質的に「毛布」になる!――。

主人公が毛布になるマンガなんて聞いたことがないが、物語の足取りも独特。どこかふわふわした雰囲気、かつかわいらしい絵柄で話が展開してゆくのだが、その話もどこかユーモラスでありながら芯のあるもの。

「本物(ふつう)」ってなんだろう――と、つい素朴に想ってしまう人に読んでほしい作品。

 

3/3. 『緑の歌』

単行本が出てないマンガは反則だろ!という気もしないでもないけれど、それでもおすすめしたい……!

高妍『緑の歌』は、台湾で暮らす少女・緑(リュ)が、日本の文化を通じて新しい世界と出逢う。とりわけ彼女の出会う文化というのが、細野晴臣というところにポイントがある――もうそれだけで良いわね!という感じもなくはないのだけれど――。

マンガとしても、絵は繊細なタッチで、表情の機微がとにかく絶妙にうまい。そうした細かい筆遣いが、ストーリーの方にも波及して好印象を与えているように思われる。

まだ単行本化していないのだけれど、眼に留まったらぜひとも手にとっていただきたい。

 

Vtuber(Youtube)について

バカみたいな話だが、Vtuberを追っていると疲れる、という側面がある。本当にバカなのでやめたほうがいいのかもしれないが、むしろそれがセットなのが人間なのでは、と、わけのわからない言い訳をしながら今年もたくさんVtuberまわりのいろいろを観察していた。

ところでこの界隈は――この言葉すら使うのを憚られるのだが――、いろいろなことがたちどころに消えてゆくので、何か書き記さないと消えてしまうものがたくさんある。たとえば、これは昨年8月ごろのことだが、5chのhololiveスレ(当時はIDなしだった)にホロ5期生の「おちゃめ機能」が、公式の投稿前にリークされていたことなど、おそらくなかったことになっている(もちろん、その証拠は筆者の手元には何もないのだが)ので、いまここに記しておく。

だがそれでも、やはりそこには人、というより筆者個人を惹きつける何かがあり、基本的には一年を通してかなり見ていた。昨年も書いたが、筆者は作業中なにか流していないと落ち着かない質なので、基本的には持久力のあるVtuberの配信などを垂れ流しにしている。

そこでとくに印象的だったあれこれを、少しだけ語りたい。

 

中野

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今年出会ったVtuberとしては、中野(チャンネル名「中野の部屋」)が心に残った。中野は、Vtuberというよりは、実写系の動画も躊躇なく挙げる、U+Vtuberという感じで、いわゆる「ガチ恋」やメンヘラ気質な依存に批判的な態度をとっているのが好印象だった。

自らの人生を惜しみなくコンテンツとして動画に昇華するのも印象的で、高卒なのに条件大卒の大企業に社長と直に交渉することで就職した経緯や、過去に同性のパートナーと交際していた話などを動画にしている。

そして今年10月には夢であった3D化のためにクラウドファンディングを実施し、目標金額700万円を大きく上回る約1250万円の金額を集め、大成功を収めた。お金がすべてだということではないが、――むしろ中野の配信ではふだんから高額のスーパーチャットが飛び交う印象がないだけにいっそう――それだけ人が応援したくなる何かがあるのだろう。

現在はご家族が病気とのことでやや休止ぎみだが、戻ってきたらまた興味深い動画をアップしてくれることだろう。

 

『Project:;COLD』

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『Project:;COLD』は、Vtuberというよりは、投稿される動画をもとに謎を解いてゆくという、現実と虚構の入り混じった、ネット上で展開されるミステリー(そうした「日常世界をゲームの一部として取り込んで現実と仮想を交差させる体験型の遊び」を「代替現実ゲーム」と謂う*12)なのだが、動画が主軸になっているという点におもしろみがあった。

主人公の佐久間ヒカリが死ぬところから物語が始まり、上記の「私たちを助けてください」という動画でミステリーは幕を開けるのだが、しかしこの動画が上がるもっと前には、これがフィクションである、ということすらかなり曖昧であった、というのが注目していたポイントだ。

要するにそれは、鳩羽つぐ的な、どこかリアルとフィクションが混交するような感じで始まったのだ。その都市伝説的な、現実と虚構が入り混じるさまに筆者は最初惹かれた。

だがその後は、やはり扱っている内容のこともあり、「この動画の内容はフィクションです」という注意書きとともに、ストーリーが展開した。動画のなかにはノイズなどが混じり、ノイズの混じった画面を注視するとQRコードの断片があり、それを併せると……等々、リアル脱出ゲームのような塩梅で物語が進行し、ファンコミュニティで専用のDiscordサーバーなども(公式が手引きして)作成されたのだが、そこまでいったときには、もはや筆者は当事者というよりは傍観者となっていたので、より詳細なことはわからなくなってしまった。

要点を言えば、「代替現実ゲーム」があくまで「ゲーム」として、「フィクション」としてしか進めないことに――他方で本当にそうか?とも思うけれど――、筆者はいろいろ考えをめぐらせたので、印象に残った、というわけだ。

「これはゲームであっても、遊びではない」という言葉があるが、はたして、「これは遊びであっても、ゲームではない」という見地はひらかれるのだろうか。

 

黛灰

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込み入った文脈はあるものの*13、しかし「どうしてそっちが現実(リアル)で、こっちが仮想(ヴァーチャル)なの?」というこのメッセージで十分だろう。

強いて言うならば、もはや通俗的でさえあるこのメッセージを、影響力のつよい大手Vtuber事務所所属のライバーが大規模に問い直したことに意味があるように思われる。

ともかく、その後おこなわれた黛灰が「現実に送り出される(=VTuberとしての黛灰はいなくなる)」か、「仮想に再構築される(=記憶がリセットされ視聴者の求めるVTuber黛灰を形成する)」かを、Twitterの投票で問い、50000票もの投票数を集めたのにもかかわらず、結果50% : 50%の同票となったこと、つまり、どちらも「選ばない」という選択を視聴者が協力して成し遂げたという事象は印象的だった。

一見穏当な結論に収まったようにも思われるが、しかしその両義性を担保するところに、つまりリアルとヴァーチャルの曖昧な領域を保っておくことに、何か意義があるように思われる。

 

「命には終わりがあるって初めて知ったときどう思った?」

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いろんな人の「死」を知ったときのエピソードを紹介する配信。「死」というデカい概念にかこつけてなんやかんやと言いたいわけではなく、筆者も月ノ美兎と同様、「死」怖めなので純粋に興味深く見たという話。

配信のなかで、「死」を知る、という事象には二段階あるとされており、つまり一段階目ではまず「死」という言葉そのもの、それが避けられないと知り、二段階目で「死」の実感を得ると分けられているが、たしかに後者の段階を深く感じている人間は意外と少ないのでは?と筆者は思った。

もちろんそんな「実感」なんて嘘なわけだが――なぜなら「死」の実感を得たときには死んでいるから――、しかし偽物の「実感」というものが、どうしてこれほどまでに人を恐怖に陥れるのか。

かく言う筆者も、「死」の「実感」を得ると、基本的にはPTSDの症状みたいになり、基本的には何か動かずにはいられなくなり、まわりのものを破壊しようとしたり、急に走り出したり、ふつうに過呼吸になったりするのだが、これは何なのだろう。人をここまでさせる心的要因というのは不思議だ。

まあそういうわで、ふつうに「死」の「実感」を得ると眠れないわけだが――筆者もあとになってわかったのだが、一時期「不眠」と呼ばれる症状になっていたようだ――、本当にその恐怖は消えないし、いまでも定期的にそうなる。

こういう配信を見ると、みんなそうなんだあ、と多少死への恐怖が和らがないわけでもないのだが、みんなそうだからなんなんだ!「私」は死ぬぞ!、となり、結局怖いものは怖いし、「死」は逃れられない。やっぱりわけがわからないよ。

 

2021年をふりかえって

ブログのこと

なんだか暗い話になってしまったけれど、でも、基本的には楽しい一年だった。

そもそもブログのことなのに肝心の自分のブログのことを忘れていたが、やっぱり『ピンドラ』に多くを割いたのはたしかである。劇場版の公開も、いよいよ迫ってきているが、公開までには、「ゼロから見直す~」シリーズを完結させたい。

いろいろと話していて改めて思うのは、やっぱり『ピンドラ』はデカい作品だということだ。これを語らないと、何かやっていられない気がする。

ほかにも、また藤本タツキが新しい読み切りを用意しているらしいし、来年もおそらく語りたくなるようなアニメがたくさん出てくるので、いつも通り、なにか書きたいことがあったら、ブログに記したいと思う。

 

現実と虚構、リアルとフィクション

さて、今年最後の総括として、最初に挙げていたテーマの話に移ろう。

以上をまとめてみれば、自分がフィクションにただなぬ影響を受けているのは火を見るよりも明らかだろう。だが反対に、他方ではリアルがフィクションをつくっているのだし、だからそこは地続きだ、というのが筆者の感覚である。

もちろんそこに線を引くことはときに重要なのだけれど、波打ち際に描いた線のように、その線は何かあれば容易くかき消されてしまう*14。だから私たちはまた線を引き直すのだけれど、それもまた、フィクションという波がさらってゆく。

だからそこにあるのは、リアルとフィクションの戯れである。人々が紡いできた歴史を見てみれば、そのリアルとフィクションの戯れのなかで、そのときごとに線引きをしてきたのは明らかであり、だが今この時代にどうしても思い出してしまうのはやっぱり『ハーモニー』の次の一節だ。

けれど世界はどんどん健全で健康で平和で美しくなって、その善意はとどまることを知らない。自重しろ、と言ったところでセカイと「空気」が気にかけるはずがなかった*15

皮肉でもなんでもなく、「健全」な世界は現にそこにある。だがまちがってはいけないのは、リアルとフィクションははっきりと二分できるものではないということだ。それははじめから二分されているのではなく、「線」という見えない何かによってその都度切り分けられてゆくものなのだ。

ただしその「線」も簡単に引けるものではなく、ヴァーチャルとフィクションの距離がさらに近づいているいま、それはいっそう難しくなっている。そう、いま問題なのはむしろヴァーチャルとフィクションの境なのだ。より厳密には、本当には、ヴァーチャルとフィクションとリアルという三項をいったん取り出してきて考えたほうがよい問題がある気がする。

現実と虚構の戯れをどうすればよいか、さらに言えば、リアルとフィクションとヴァーチャルの戯れをどうすればよいのか、そのどこに「線」を引けばよいのか、それがいま問われているように思われる。

 

最後に――2022年へ向けて――

今年は忙しい年だったということもあり、あまりオタク活動に専念できなかった。来年はとりわけ映画やリアルイベントなどに足繁く通い、オタク活動を大いに楽しみたい。ブログも、今年よりは頻繁に更新できるようにしたい。

最後にはなるが、今年もお世話になった方々にお礼を言いたい。今年は昨年以上に出会いがあり、本当に良い人達に囲まれ、大いに刺激を受けた。ここではとくにTwitterでかかわりをもってくれた方々、いっしょに鑑賞会などを行ってくれたみなさん、ブログにコメントをくれた方々に、感謝申し上げたい。ありがとうございました。

それでは、良いお年を。また来年。

 

 

*1:ミシェル・フーコーは実際そのような読解を展開している. cf. Michel Foucault, « Ceci n'est pas une pipe », Les Cahiers du chemin, n゚  2, 15 janvier 1968, p. 79-105(ミシェル・フーコー「これはパイプではない」『フーコー・コレクション3 言説・表象』岩佐鉄男訳、ちくま学芸文庫、2006年、111-142頁).

*2:というようなことを考える好材料がようやく邦訳で刊行される. すなわち, マリ=ジョゼ・モンザン『イメージは殺すことができるか』(澤田直・黒木秀房訳, 法政大学出版局, 2021)である.

*3:「言葉は誤解のもとだからね」. cf. Antoine de Saint-Exupéry,  Le Petit Prince(サンテグジュペリ『星の王子さま』). ちなみに, そいういうことだから前段落の最後の解釈, つまり「これはパイプではない(Ceci n'est pas une pipe)」という文章自体が「パイプではない(n'est pas une pipe)」という解釈こそが, そもそもの言葉自体の誤配について二重三重の示唆をくれる, という点で重要であるし, 考える余地がたくさんある. あるいはそこで, バートルビーの " I would prefer not to" (しいて訳せば「せずにすめばありがたいのですが」などとなろう)などを思い出してもよいはずだ. バートルビーについて知りたい方はジョルジョ・アガンベン『バートルビー 偶然性について』高桑和巳訳, 月曜社, 2005年)を読まれるとよい. というのは, 解説が充実していて, ブランショなどが展開した読解についても一通りまとめられているからだ.

*4:あんまり関係ないのだけれどミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』山田登世子訳(ちくま学芸文庫、2021年)を読みましたという話.

*5:ちなみに、『ゴジラ S.P』のシリーズ構成・脚本を務められた円城塔氏が匿名でTwitterをやっていらっしゃるものだから、相変わらずこのつよい人だれだろう?→円城塔じゃん……の流れが絶えない、と書いたらご本人に補足されてしまうというアクシデントも印象的だった…….

*6:ちなみに, 「話数単位で選ぶ、~年TVアニメ10選」という企画がネット上で毎年行われており, そこでは私よりも何百倍もアニメーションに詳しい方々が選りすぐりの作品を挙げていらっしゃるので, 話数単位での傑作を知りたい方はぜひそちらをご覧になるとよい.

*7:たとえばここでカリグラム - Wikipediaなどを想起するわけだが.

*8:ちなみに『長いさよなら』の『』は誤記ではない. 公式サイトではストーリーごとのタイトルが『』で囲われている. 深読みすれば, ひとつひとつが単体の作品, ということか.

*9:Jean Christophe Bailly, Le Versant animal, Paris, Bayard, 2007, p. 11 『思考する動物たち人間と動物の共生を求めて』、石田和男・山口俊洋訳、出版館ブック・クラブ、2013年、5-6頁) ).

*10:Ibid., p. 12(同上書、 6-7頁).

*11:リルケ『ドゥイノの悲歌』「第八の悲歌」手塚富雄訳, 岩波文庫, 2010年, 36頁.

*12:詳細は以下を参照.代替現実ゲーム - Wikipedia

*13:たとえばこの事件に関してはVTuber黛灰「どうしてそっちがリアルで、こっちがバーチャルなの」街頭ジャック事件を報告 - QJWeb クイック・ジャパン ウェブ, 黛灰の物語に関しては黛灰 (まゆずみかい) - にじさんじ Wiki*, 黛灰の物語まとめ(修正版) - Privatterなどに詳しい.

*14:cf. Michel Faucault, Preface a la transgression(1963), ligne, Paris, 2012.

*15:伊藤計劃『ハーモニー』ハヤカワ文庫, 2010年.