Ⅰ. 石浜真史と「不気味なもの/異質なもの」
ⅰ. 「不気味/異質」?
さっそくだが何枚か画像を見ていただきたい。
上の画像はいずれもアニメーターの石浜真史(いしはま まさし)が絵コンテを務めたOPの画像である。
石浜OP・ED*1ではこのように、しばしば「不気味な」あるいは「異質な」カットが差し込まれる。
この「不気味/異質な」カットにはいつもゾクっとさせられるのだが、それとともに後からその「不気味/異質な」カットが気になりだして、不思議と惹かれ、また見てしまう。
そうして見ていると、だんだん「不気味/異質」なのは、何も上のようなカットだけではないことに気が付いてゆく。部分的というより、石浜OP・ED全体が「不気味/異質なもの」に見えてくるのだ。
いったいこれはどういうことなのだろうか?
今回は、以上のような石浜OP・EDの「不気味さ/異質さ」について、フロイトの「不気味なもの」、バタイユの「異質なもの」という概念を用いながら考察してみたい。
石浜OP・EDはなぜあんなにも「不気味/異質」なのか? あるいはまた、なぜその「不気味/異質」であるはずのものが非常に魅力的に映るのか? それについて考えてみたい。
Ⅱ. 「眼」の表象と「不気味なもの」
ⅰ. 多用される「眼」
石浜OP・EDの中の「不気味/異質」なものとして、まず印象的なのは「眼」のイメージだと言える。
この「眼」が映るのは一瞬なので気づきづらいが、数えてみると石浜OP・EDにはしばしばこのような「眼」が挿入されていることがわかる。
しかも、それはあまりアニメ本編とは関係のない「眼」であることが多い。言ってしまえばその「眼」は必ずしもOPやEDに入れなくてもよい「眼」なのだ。
ではいったいなぜ「眼」はそんなに多用されるのだろうか?
ⅱ. 不気味な眼
思うにそれは、この「眼」が「不気味さ」を喚起し、それが人を刺激するからではないだろうか。
まず単純に、上の画像からわかるように「眼」はその描かれ方からして「不気味」である。人間の「眼」っぽくはあるが、奇妙に見開かれているし、色もまがまがしい。
それに、画像ではわからないかもしれないが、この「眼」は一瞬しか映らない。一瞬しか映らないからこそ「今のは何だったんだ?」と、どこか引っかかって、自然と「不気味」な気持ちにさせられる。
そのようなことから、石浜OP・EDにおける「眼」というのは普通に考えても「不気味」であるわけだが、ジークムント・フロイト(1856-1939)によればもっと別の理由から「眼」のイメージは「不気味」な感情につながるというのである。
はたしてフロイトは「眼」がどうして「不気味」だと考えるのだろうか?
ⅲ. 眼球不安と去勢不安
①去勢コンプレックス
まず前提として、フロイトは「不気味なもの」というのは、抑圧されていたものが再び刺激されたときに感じる気持ちだと主張する。
そして結論から言えば、「眼」のイメージは、「去勢コンプレックス」という抑圧されていたものを喚起するからこそ、「不気味な」気持ちを湧き起こすのだと言う。
「去勢コンプレックス」とは、その名の通り、去勢されてしまうのではないかという不安、あるいはもう既に去勢されてしまったのではないかというコンプレックスのことである。
フロイトによれば、男の子は幼少期に父親に去勢されるのではないかという不安を感じ、女の子は男性器がない自分の体を見て去勢されてしまったのではないかという不安を感じ、それらが「去勢コンプレックス」になっているのだと言う。
②「眼球不安」が「去勢コンプレックス」の不安を呼びおこす
ではその「去勢コンプレックス」と「眼」はどのようにつながっているのだろうか?
フロイトによれば、「眼をめぐるこの不安、盲目になるかもしれないというこの不安は、多くの場合に去勢不安の代替物」*2なのだと言う。
早い話が、「眼」というのが男性器のメタファーなのである。例えば、「眼」に針が迫ってきたり、「眼」をえぐられることをイメージをすると、私たちはかなりの「不安」を感じるわけだが、それはその「眼」をとられるという不安を通じて、去勢されるのではないかという不安を感じているからなのだとフロイトは考えた。
こうして「眼」に関する不安は「去勢コンプレックス」を呼び覚まし、それが「不気味さ」につながるというわけだ。
ⅳ. 切り離された「眼」
しかしフロイトの言っていることはどうも疑わしい。とくに「眼」が「去勢コンプレックス」につながっているという部分はどうもピンとこない……。
しかしながら、「眼」を見たときに、あるいは「眼」が奪われてしまうのではないかと考えたときに不安を感じるというのは確かなことであるように思う。
そこで改めて石浜OP・EDを見てみよう。
石浜OP・EDに登場する「眼」は、上の画像や冒頭でお見せした画像のように、独立した眼、片方だけの眼であることが多い。
それらを見ているとなんとなく自分の眼もうずうずしてくる。ともすると飛び出てしまうようなギョロっとした「眼」、どこかから切り離されたような片方だけの「眼」は、誰かから奪われた「眼」なのではないか? あるいは人間とはべつの生き物の「眼」なのではないか? そんな風な妄想を抱かせる。
もしこの「眼」を見た視聴者が(一瞬だとしても)そのような「眼」に関する不安(あるいは自分の眼もとられてしまうのではないかという不安)を感じているのならば、たしかにそれはフロイトの言うように「不気味」という感情につながっているのかもしれない。
しかしどうもこれだけでは納得しがたい。
たしかに「眼」はそれだけで「不気味さ」を喚起しているようにも思えるが、どうもそれだけが石浜OP・EDの「不気味さ」を醸し出しているのではないような気がする。石浜OP・EDにはもっと全体的に「不気味さ」が漂っている。
そこで、次はフロイトの考える「不気味さ」のもう一つの条件を応用しながら、さらに石浜OP・EDの全体的な「不気味さ」の秘密に迫っていきたい。
Ⅲ. 「馴染みのもの」と「不気味なもの」
ⅰ. 「不気味なもの」=「馴染みのもの」?
フロイトは『不気味なもの』という論文のなかで、「不気味なもの」の条件として「眼」以外にも、ある重要な条件を挙げている。
その条件とは、「馴染みのものである」というものだ。つまり「馴染みのもの」=「不気味なもの」とフロイトは主張する。
しかしそれは一見矛盾しているように思える。「馴染みのもの」と言えばむしろ人を安心させるようなものではないのか? 「馴染みのもの」が「不気味なもの」になるとは、いったいどういうことなのだろうか?
ⅱ. 「unheimlich」と「heimlich」
ドイツ語で「不気味なもの」というのは「unheimlich(ウンハイムリッヒ)」と言う。そしてこれは「heimlich」、つまり「馴染みのもの」という意味の単語の対義語である。
しかしフロイトによれば、辞書をたどっていくと、「heimlich」という単語の説明の最後の方に「不気味なもの」という意味も出てくると言うのである。
つまり「馴染みのもの」も、ある一定の条件下では「不気味なもの」という意味を帯びてくるというのである。
それはどういうことだろうか?
ⅲ. 「馴染み」が「不気味」に変わるとき
フロイトは「馴染みのもの」が「不気味なもの」になる瞬間を例を挙げて説明する。
例えば以下のようなとき、「馴染みのもの」は「不気味なもの」になると言う。
- 自分と瓜二つの人間に偶然出遭ったとき
- 変な路地に迷い込んでしまったので、そこを抜け出そうとして道を進んでいたらまた同じ路地に出てしまい、再び抜け出そうと進むと三度同じ路地に出てしまったというとき
- 泊まった部屋が「62」、クロークの番号が「62」、さらにその日乗った鉄道の車室も「62」だったとき
もう一人の「自分」も、「同じ路地」も、同じ「62」という番号も、たしかに「馴染みのもの」だが、しかし同時に「不気味なもの」であるというのはよくわかる。
つまり「馴染みのもの」でも、それがあまりにも精巧であったり、あまりにも奇妙な偶然が重なったりすると、それは「不気味なもの」に変化するのである。
他にも例えば「人形」なども、フロイトは「馴染みのもの」だが「不気味なもの」である例として挙げている。
これはけっこう頷ける話ではないだろうか。私も幼いころは人形が動き出しそうで「不気味だ」と思っていた覚えがある。
ともかく、フロイトは以上のように、「馴染みのもの」が少し変化して現れたときにこそ人は「不気味なもの」を感じるのだと主張した。
ⅳ. 石浜OP・EDにおける「馴染みのもの」
改めて石浜OP・EDを見てみよう。
石浜OP・EDには、フロイトの言っていたような「馴染みのもの」が少し変化して現れて「不気味なもの」になる瞬間というのがとてもたくさんあるように思える。
例えば石浜OP・EDでは以下のような「少しおかしい関節の曲がり方」、「ありえないくらいの細い四肢」をしているキャラが描かれることがしばしばある。
これらはいずれも「馴染みのある」キャラクターなのだが、そのデザインや四肢の細さ、関節の曲がり具合などが、いつもより少しズレている。
この「ズレ」が、ともすると少し「不気味」に感じられるのだが、しかしなんとなくこの「ズレ」が魅力的に感じられるし、この「不気味さ」に心惹かれてしまう(要するにこれは前述した「人形」と同じ例だ)。
この「ズレ」は、その「ズレ」ゆえに、しばしば「作画崩壊」と言われてしまうのだが、全くそんなことはないし、この「ズレ」、「不気味さ」こそがやはり石浜OP・EDの魅力だと思うのだ。
以上の例以外にも、石浜OP・EDには「馴染みのもの」が「不気味なもの」に変わる瞬間というのは多々ある。
例えば、石浜OP・EDのお家芸とも言えるいわゆる「テロップ芸」も、我々に「馴染みのある」文字というものが、あり得ないような場所に置かれるからこそ、少し「不気味な」感じを醸し出す。
しかしこれに関してはもう少し別の説明も必要になってくる。先走って言ってしまえば、つまりこの「馴染みのもの」が「不気味なもの」になる、その「アルテラシオン(Altération)」の瞬間こそが人を魅了するのだ。
そこで最後に、バタイユの「異質なもの」、「アルテラシオン(Altération)」という概念を応用して説明してみたい。
Ⅳ. 「異質なもの」
ⅰ. 「異質なもの」と「アルテラシオン」
バタイユの「異質なもの」は、フロイトが言う「不気味なもの」によく似ている。イメージとしては、「『馴染みのもの』が『不気味なもの』に変わったもの」=「異質なもの」と考えてもよいくらいである。
しかしもちろん正確には違う。よりバタイユに則して説明すれば、「異質なもの」というのは普段我々の生活にぴったりと適合しているものを別様に変えること、「同質的なもの」を異質に変えることで生まれる。
そしてバタイユはこの「同質的なもの」から「異質なもの」への変化を「アルテラシオン(Altération)」と呼んだ。
ⅱ. 「ファン・ゴッホの切り落とされた耳」
例えば、バタイユは「アルテラシオン(Altération)」の例として、ゴッホの切り落とされた耳を挙げている。
ゴッホのいわゆる耳切り事件は有名だが、ゴッホはその後、その切り落とした自分の耳を娼婦に送り付けている。
まさにこれが「アルテラシオン」である。つまり「同質的なもの」として、普段は人間の顔にくっついているのが「普通」のはずの耳が、切り落とされて、さらに「贈り物(贈与)」になっているのである。この「耳」のようなものが「異質なもの」なのである。
ⅲ. 「異質なもの」の生み出す魂の「交流」
大事なのは、バタイユはこの「異質なもの」に、人間を同質的な生の「外部」へと目を見開かせ、深い「交わり」を生きさせる可能性があると主張していたところである。
これが、まさに人が芸術に深く感動する理由でもある。つまり、「異質なもの」に出会った人間は、ときに激しく心を揺さぶられ、それまで囚われていた安寧なだけの生を抜け出し、広大な生命の奔流につながることができるというのである。
もっとわかりやすく言えば、例えば、これ以上激しくしたら死ぬかもしれないというところまでセックスをしたときに深い交わりを感じたり、古代の遺跡や遺物に触れた時にその当代の人たちの生の営みを感じたり、文学に深く没入して自分が自分じゃないような感覚を味わったりすることがあるということだ(以上の例はすべてバタイユが言っていたことでもある)。
ⅳ. 石浜OP・EDの「異質なもの」
今一度、石浜OP・EDに戻ろう。
石浜OP・EDを見てみると、バタイユの言う「異質なもの」が石浜OP・ED全体にあふれていることがわかってくる。
先ほどの、日常ではありえない場所に「テロップ」が浮かぶというのもそうだが、最初の普通の人間の顔からは切り離された不気味な「眼」も、普段ではちょっとありえないような「身体」も、みな「同質的なもの」から切り離された「異質なもの」と見なせるのではないだろうか。
もちろん全部が全部というわけではないが、上の画像のような石浜OP・EDに特徴的な不穏なカット、不気味な絵、奇妙な重なりなどは特に「異質なもの」としての効果を発揮しているように思われる。
そうだとするならば、石浜OP・EDがあれほどの魅力を発している理由もわかる気がする。つまり石浜OP・EDにはフロイトの言う「不気味なもの」やバタイユの言う「異質なもの」が、(意図的にせよ無意識的にせよ)ふんだんに用いられているのだ。
だから石浜OP・EDには魅力があるのだ。すなわち、石浜OP・EDにちりばめられた「不気味なもの」や「異質なもの」がつねにその輝きを放ち、私たちを惹きつけてやまないのだ。
Ⅴ. 石浜OP・EDの可能性
今回は石浜OP・EDの魅力について論じた。
石浜OP・EDには、各所に「不気味なもの」、「異質なもの」がちりばめられており、それゆえにそれらが私たちを魅了する。つまるところはそれが結論だ。
しかしまだまだ石浜OP・EDについては語り足らない。「不気味なもの」、「異質なもの」だけでは説明できない種類の魅力もあるし、かなり駆け足で説明してしまったので、「不気味なもの」や「異質なもの」についての説明も十分とは言えない。
残した課題は次回以降にクリアしたい。例えばだが、フロイトやバタイユの理論と似通ったところにルドルフ・オットーの「聖なるもの」という概念があるし、バタイユの「異質なもの」を実践したロザリンド・クラウスとイヴ・アラン・ボワという現代美術の巨匠(といってもよいと思うのだが……)という人たちもいるのでそういう人たちの論理を使ってみてもよいかもしれない。
もちろん、別に変に理屈をこねる必要はない。私としては石浜OP・EDの魅力が一人でも多くのひとに伝わればそれはそれで嬉しい。
ただ、例えばこれからアニメーションを作る側、あるいは批評する側の人が、そういう理論を知った上で作ったり、語ったりしたら、またおもしろいのではないかと思うのだ。そういう想いもあって、まずは自分で実践してみた次第である。
とにかく、私は石浜OP・EDが好きだ。そしてこの魅力が一人でも多くの人に伝わることを願ってやまない。
<参考文献>
・S・フロイト「不気味なもの」『笑い/不気味なもの』原章二(訳)(平凡社,2016)
・G・バタイユ『ドキュマン』江澤健一郎(訳)(河出文庫, 2014)
・酒井健『バタイユ入門』(ちくま新書, 1996)
・酒井健『バタイユと芸術』(青土社, 2019)