※以下、『チェンソーマン』最終話までの重大なネタバレをふくみます。ご注意ください。
はじめに
『チェンソーマン』は、主人公デンジが宿敵マキマを食して、その幕を閉じる。
それには一応理由がある。「内閣総理大臣との契約により」、マキマへの「攻撃は適当な日本国民の病気や事故に変換」される*1。そこで「攻撃」以外の手段でマキマを倒すため、デンジはマキマを食したというわけだ。
しかし当然、疑問は残る。 なぜ「食べる」ことは「攻撃」ではないのか、結局のところどうしてマキマは復活しなかったのか。それについて岸辺は「契約内容化認識の問題をたまたま上手くつけたんだろうな」としているが*2、当のデンジはこう言っている。
俺はマキマさんを傷つけるつもりなんてないんです そう本気で思ってるんすよ 俺はマキマさんを食べて一つになった… 攻撃じゃない 愛ですよ 愛*3
なるほどたしかに、食べて一つになるというのは「愛」であって「攻撃」ではない、だからマキマは復活しなかった、そう考えれば理屈は通りそうではある。
しかしその「愛」とは何だろうか? 愛する人を食べてしまえるほどのその「愛」とは、はたしていかようなものなのだろうか?
本稿では、「愛」と「食べる」という行為にまつわる問題を、『チェンソーマン』における「イメージ」と「まなざし」の問題に接続して考察し、最終的には、マキマを食すラストシーンにひとつの解釈を施したい*4。
「イメージ」や「まなざし」というのは、一見「愛」とも「食べる」こととも関係ないように思えるが、先走って言ってしまえば、食べるほどの「愛」というのは、つまるところまなざさないということ、イメージを守るということだと解釈できる。
交錯するイメージとまなざしの果てで、デンジはイメージしかまなざさないということを貫いた。それが『チェンソーマン』という物語における、ひとつの解だと思うのだ。
1.0. マキマのまなざし
1.1. デンジをまなざさないマキマ
ラストシーンを解釈するにあたってポイントとなるのは、マキマが「視覚」以外で(つまり「聴覚」や「嗅覚」で)他者を識別していたということだろう。
そのことは諸所で示されていた。2話の時点で「私は特別に鼻が利くんだ」とマキマ自らが明かしていたし、「マキマは下等生物の耳を借りる」とも言われており、実際、岸辺は「会話はマキマに聞かれている」と筆談でクァンシと「会話」していた*5。「私も田舎のネズミが好き」や「死体が喋っている」など、その場にいないはずの話題をくり返し得ているのも、その能力のおかげだろう*6。
この設定がラストバトルに生きてくる。デンジはマキマが「気になるヤツの匂いだけしか覚えていない」ことに気づき、「マキマさんが俺じゃなくてず~っとチェンソーマンしか見ていない事に」賭けた*7。その結果、デンジはチェンソーマンをおとりに使い、気づかれずに攻撃することができたのである。
そうしてデンジは結論する。「俺ん事なんて最初から一度も見てくれてなかったんだ…」と*8。
1.2. 非対称性のまなざし
では、マキマはいったい何をまなざしていたのだろうか。
そもそもマキマの眼は、それ自体特殊な模様をしており、どこを見ているのかが定かではない。
というより、本当によく見えていないのかもしれない。サメの魔人ビームが仲間になった際、まったく似もしていないビームとデンジの顔を「似ている」と言っていたが、それも冗談ではなく、視覚的に識別していない証だともとらえられる*9。
あるいは眼は使われるとしても、命令を下すために用いられている。以前にも書いたが*10、マキマの命令のセリフの吹き出しは眼から出ている(下図参照)。
上図以外の場面でも、決定的な場面の多くでマキマの命令は「眼」から発せられており*11、そういう意味では、支配の悪魔たるマキマは、はじめから支配の構造を身体に刻み込まれていたとも言える。
「ずっと他者との対等な関係を築きたかった」という支配の悪魔=マキマは、まなざしで他者を御することしかできず、誰かとまなざしを交わし合うというもっとも基本的な他者との出会いの契機さえ持ち得なかった。
その意味で、マキマの向けるまなざしは、いつも非対称なのである。
1.3. 崇拝のまなざし
では、マキマのまなざしはどこにも向けられていないのだろうか?
そうではない。マキマは唯一、チェンソーマンにだけはそのまなざしを注いでいた。
ただしこのまなざしも、命令するまなざしと同じく、非対称なものである。というのも、それはある種の崇拝のまなざしだからである。「チェンソーマンに食べられ彼の一部になる… それほど光栄な事はありません」と言うマキマの「ファン」としての在り方は、もはやファンというよりは崇拝の域に達しているように思われる*12。
崇拝といえば多少聞こえは良いかもしれないが、悪く言えば、それはイメージの押し付けである。「チェンソーマンはね… 痰なんか吐かないんだよ」、「チェンソーマンはね服なんて着ないし言葉を喋らないし やる事全部がめちゃくちゃでなきゃいけないの」*13、マキマはそういったイメージをチェンソーマンに仮託していた。
そこで少し回り道になるが、これに関して藤本タツキの前作『ファイアパンチ』を参照したい。というのも、『ファイアパンチ』では「演技」などによって(良くも悪くも)イメージに翻弄される(あるいはその先で「崇拝」の域に達する)ことがひとつの主題となっていたからだ。
1.4. 『ファイアパンチ』におけるイメージの問題
『ファイアパンチ』においてイメージの問題系(演技、崇拝)はどのように表現されていただろうか。
『ファイアパンチ』においては、主人公たち(アグニ、トガタ、ユダ)がみな「嘘」と「演技」を駆使し、「なりたい自分」を模索していたのだった*14。トガタは心は「男」だけれど「女」を演じ、ユダは「神の声が聞こえる演技」をし、アグニは「復讐者」、「主人公」、「神様」、「ファイアパンチ」、「兄さん」を次々と演じていった。
崇拝ということに関して言えば、ユダの「神の声が聞こえる演技」とアグニの「神様」の演技が顕著であろう。彼らは演技によって人を欺き、ときに人殺しも厭わないような残虐な行為を誘引し、盲目的な信者による共同体をつくり上げたのだった。
つまり、そこで描かれていたのは、まなざされたイメージによって翻弄される人間の(ときに狂気的な)在りようだとまとめることができよう。
その在りようが集約されたセリフがある。トガタがトム・クルーズを評する以下のセリフだ(下図参照)。
要するに、トム・クルーズが現実生活でどんな生活を送っていようとも、演じられたそのイメージをまなざしてしまうというのである。
しかもそのイメージは映画のスクリーンを離れても継続する。スクリーンに投影されていたそのイメージが、こんどは「普段」のトム・クルーズに投影されるのである。あたかも、「普段」のトム・クルーズの身体がスクリーンであるかのように。
1.5. イメージとしてのチェンソーマン
さて、話を『チェンソーマン』に戻そう。
先のトガタのトム・クルーズに対するまなざしの在り方は、マキマのチェンソーマンに対するまなざしの在り方を読み解くヒントになる。というのも、トガタのまなざしを過剰にしたものが、マキマのまなざしの在り方だと考えられるからだ。
まずもって、マキマは「助けを叫ぶとやってくる 叫ばれた悪魔はチェンソーで殺され 助けを求めた悪魔もバラバラに殺される そんなだから多くの悪魔に目をつけられて殺されるけど 何度も何度もエンジンを吹かして起き上がる」「地獄のヒーロー チェンソーマン」という戯画的なヒーロー像としてのチェンソーマンの「ファン」である*15。
したがってそのヒーロー像=イメージが「デンジ」というスクリーンに映されると齟齬をおこす。「デンジ」というスクリーンがイメージとしてのチェンソーマンにふさわしくないからである。
だからマキマはデンジにチェンソーマンのイメージを押し付け、「スクリーン」を「正常」に直そうとする。だが結局のところ、スクリーンはスクリーンでしかない。どれだけマキマがチェンソーマンのイメージをデンジという名のスクリーン上にまなざしても、スクリーンはまなざしを返してくれないのである。
ここに、マキマのまなざしの本質がある。彼女が唯一まなざすのはチェンソーマンだけなのだが、その実、マキマはチェンソーマンの「イメージ」をまなざしているのであり、チェンソーマンにまなざされることを望んではいないのである。
だからマキマにとって、チェンソーマンという他者が自分に対してどうふるまうかということはさして重要ではない。勝って支配してもよいし、負けて食われてもかまわない。そもそもファン、あるいは崇拝という在り方も、対象と距離を置き、一方的にまなざす在り方ではないか。
1.6. マキマから「カメラ」へ
以上でマキマのまなざしの在りようが理解できよう。
マキマのまなざしは、徹底的に非対称である。他者を識別するときには他者をまなざさず、他者をまなざすときは一方的に命令を押し付けるばかりである。
唯一まなざしを与えるチェンソーマンについても、まなざしは非対称である。マキマは徹底的にチェンソーマンのイメージをまなざしているのであり、ファンとしてチェンソーマンを見上げる在り方は、一貫して一方通行なものである。
さて、これでマキマのまなざしについてはある程度語り終えたが、この文章の語りのまなざしもまた、まだ一方通行なものである。
というのはデンジのまなざしについて見ていないからであるが、しかしもうひとつ、欠かせないまなざしがある。
それは「カメラ」のまなざしだ。「カメラ」というのはこの場合、コマ割りや構図をふくめた『チェンソーマン』というマンガそのもののつくりを指す。『チェンソーマン』の世界のどこを映し、どこを映さないのか、あるいはどの角度から映すのかといったことはこの「カメラ」に依っている。
鑑賞者(読者)はその「カメラ」越しにしか『チェンソーマン』の世界を見られない、とするならば、その意味で「カメラ」のまなざしは鑑賞者(読者)のまなざしとも言えよう。
すこし迂回することにはなるが、この「カメラ」のまなざしを蝶番とすることで、なめらかにデンジのまなざしについての検討に接続することができるだろう。
2.0. 「カメラ」のまなざし
2.1. 「カメラ」の誘導
「カメラ」のまなざしに関連して、藤本タツキは興味深い発言をしている。
前作『ファイアパンチ』では、消えない炎に包まれる主人公(ファイアマンのアグニ)を主役に、映画を撮ろうとする人物が登場した。ドキュメンタリーというのは、藤本さんにとって重要なモチーフなのだろうか。
「というよりは、単に使ってみたい手法がいくつかあった、って感じですね。とある映像作家の方が言っていたんですよ。ドキュメンタリーというのは、ありのままを映しているように見えて、実は撮る側の意思が強く反映されている、って。たとえば悲惨な事故があったあとに人を映すと、ただ寝ているだけでもどこか苦しんでいるように見える。だけど実は、寝ている映像自体は、事故が起きる前に撮られたものかもしれない。そんなふうに、撮る側の意図と編集で印象が誘導されてしまうものなんですよね。それってマンガでもできるよな、と思ったんです。感情を表情や言葉で表すのは簡単だけど、人は強烈な出来事があったあとほど、わかりやすい表情はしないし、できない。だけど、たとえ無表情であっても、効果的に配置することで、読者が勝手に感情を想像して思い入れてくれるんじゃないかな、と」
(「『チェンソーマン』藤本タツキインタビュー」より*16。強調筆者)
つまり、「カメラ」のまなざしによって鑑賞者を誘導することができるというのである。
「使ってみたい」という言葉通り、作中においてこの手法がとられていたような場面がいくつか思い当たるが、詳細な考察は別稿に譲るとして、ここではひとつだけ、「マキマ」と「デンジ」、それから「カメラ」の三項が一堂に会する、ある象徴的な場面について検討したい。
その場面とは、マキマとデンジがデートに行くシーンである。
2.2. デートにおける「カメラ」
サムライソードを倒したあと、つかの間の休日に、デンジはマキマと念願のデートに出かける。デートの内容は「夜の十二時まで 映画館をハシゴして見まくります」という、一風変わったもの。
鑑賞中は表情をほとんど変えないマキマを連続して「カメラ」が映すからこそ、最後の映画で泣いているマキマは、より情動的に映し出される。ここに「撮る側の意図と編集」があるのはよいとして、注目したいのは最後の場面である。
「俺に心ってあると思います?」というデンジに対してマキマはデンジの「心臓」に耳を当てる。そのとき「カメラ」はデンジの動揺を強調するように働く。まなざしはデンジの赤らんだ顔を映し、「ドクンドクン」という効果音が響き渡って、最後は余韻を残すようにデンジにスポットを当てる。
この「カメラ」のまなざしにより、われわれ鑑賞者にはその場面があたかもメロドラマの一幕であるかのような印象を受ける。マキマのさりげない素振りは、「カメラ」のまなざしにより、ドラマチックな演出に変容してしまう。
しかし、『チェンソーマン』を最終回まで見通したわれわれは、この場面が単なるメロドラマの一幕ではありえないことを知っている。マキマは最初からずっと「チェンソーマンしか見ていない」。だからその「デート」においても、マキマはデンジというよりはその真の像=心臓=チェンソーマンをまなざしていたのだろう。
すると途端にそのシーンの演出は氷解する。それは心ときめく場面ではまったくなく、チェンソーマンの鼓動をマキマがたしかめる、ある種狂気的な一幕なのである。
2.3. 「カメラ」がつくりだすイメージ
以上のような「カメラ」のまなざしは、一方ではやはりマキマのほんとうの「まなざし」を見づらくしている。「撮る側の意図と編集」が、デンジといっしょに鑑賞者をも欺いているのだ。
しかし他方で、それはデンジの「見え方」をも誘導している。デンジを主役に撮る「カメラ」や、デンジの内心が刻み込まれた「画面」、デンジの気持ちに寄り添うかのような過剰な「演出」は、ほんとうにはデンジが世界をどう見ているのかということ=デンジのまなざしを、フラットな視点から看取することを妨げている。
それは『チェンソーマン』の世界においても同じことである。作中において「チェンソーマン」はテレビで3度報じられる。1度目は「恐怖デンノコ悪魔」として*17、2度目は「突如現れた謎のヒーロー」として*18、そして3度目は人々が熱狂する「倒れても倒れても最後には必ず起き上がる男 チェンソーマン」として*19。
そのいずれにおいても、テレビで放映される「チェンソーマン」は、ひとつのイメージである。「撮る側の意図と編集で印象が誘導されてしまう」という事態が、まさに『チェンソーマン』の世界のなかにおいても起こっているのである。
2.4. 名前のイメージ
しかしイメージでまなざされるというのは悪魔の宿命でもある。なぜなら、悪魔の強さというのはその名前のイメージによって左右されるからだ。
「支配の悪魔」たるマキマがこのイメージのエコノミーにとらわれていることは言うまでもない。一方チェンソーマンも、悪魔でも魔人でもないとはいえ、「世界中がチェンソーマンを受け入れ」、「キャラクターとして消費され」ることで「相当弱くなってる」ことを考えれば、同様にこのイメージのエコノミーに回収されていると考えられる*20。
支配の悪魔=マキマも、チェンソーマン=デンジも、その意味では二重の「カメラ」にまなざされている。ひとつには『チェンソーマン』の世界内のカメラに、そしてもうひとつには『チェンソーマン』というマンガそのものという「カメラ」に。
2.5. イメージの戦争
以上のことから、『チェンソーマン』における「カメラ」のまなざしの在りようが明らかとなる。
まず、マンガの見せ方そのものであるところの「カメラ」は、「撮る側の意図と編集で印象が誘導」されるという作者の発言通り、鑑賞者を誘導するようなまなざしを構成していた。そのまなざしは、主役であるデンジにフォーカスし、マキマがほんとうにまなざしているものを見えにくくさせていた。
しかし、デンジをまなざすのは本の手前にいる読者だけではない。チェンソーマンは(作中の)テレビでさらされ、世界内の視聴者にまなざされる。そこではイメージが操作されているのだが、それはイメージでつよさが決まる悪魔の宿命だ。力関係がイメージにかかっているのならば、『チェンソーマン』の世界の闘いは、まなざされるイメージの戦争だとも言えよう。
そう、まなざされるのはイメージなのだ。マキマのまなざし、そして「カメラ」のまなざしについて見てきたわれわれには、いまやそのことは明らかだ。マキマはイメージでチェンソーマンをとらえていたし、「カメラ」はイメージを誘導していた。
では、残るデンジのまなざしはどうだろうか。
3.0. デンジのまなざし
3.1. 演じられたイメージとしての「マキマ」
デンジはたしかにマキマをまなざしていた。しかしながら、そのまなざされたマキマは、デンジとポチタとの間で交わされた契約を破棄するために演じられた、いわば虚飾の「マキマ」だと言える*21。というのは、本編で明かされている通り、マキマはデンジが幸福になるよう、デンジが望むイメージとしての「マキマ」を演じていたからだ。
だからデンジがまなざしていたのは、ありのままのマキマその人というよりは、自分に都合良く接してくれるマキマのイメージなのだ。デンジはずっと、「普通の生活」を与えてくれ、無条件に自分に愛情を注いでくれる「ママ」のような「マキマ」というイメージをまなざしていた*22。
その意味では、「俺ん事なんて最初から一度も見てくれなかった」と嘆きつつ、ほんとうに見ていなかったのはデンジの方だったと言える。デンジはずっと、マキマその人ではなく、理想のマキマばかりまなざしていたのである。
そう考えると、ここにも『ファイアパンチ』で語られていたテーマ、すなわち「演技」・「イメージ」に翻弄されてるということの、ある種の恐ろしさが読み取れるわけだが、だが待て、デンジは「あんな目にあっておいて まだマキマさんの事が好きだ」と言ったのではなかったか?*23
つまりデンジは演技されたイメージとしての「マキマ」を乗り越えて、マキマその人、ありのままのマキマを「好き」になったのではあるまいか?
3.2. イメージを愛するデンジ
結論から言えば、そうではない。
その証拠にまず、デンジが「好きだ」と言って思い浮かべるのは、虚構で飾られた、演技されたイメージとしての「マキマ」であるということが挙げられる。
以下の画像を見てほしい。
マキマを殺す手法を考えるにあたって、デンジはマキマとの日々を振り返り、そして「まだマキマさんの事が好きだ」という結論に至るわけだが、その直前に思い出すのはすべて演じられた「マキマ」である。
そこに表象されているのは、まさしくマキマの「イメージ」であるわけだが、そのどれもが、10巻でマキマが「デンジ君をうんと幸せにする事にした」という「種明かし」をする以前のものである*24。
したがって、デンジが「好きだ」という「マキマさん」というのは、「種明かし」を終えた後のありのままのマキマではなく、あくまでデンジに「普通の生活」を与え、無条件に愛してくれる限りでのイメージとしての「マキマ」にすぎないのである。
3.3. ありのままのマキマをまなざさないデンジ
さらに言えば、そもそもデンジがマキマを殺そうと決断したのは、テレビで放映されたチェンソーマンのイメージに憧れたことがきっかけであった(つまりここにもまた、イメージに翻弄される恐ろしさ、という『ファイアパンチ』のテーマが見て取れるわけだが)。
人々の注目を集め、黄色い声援を浴びる「チェンソーマン」を目の当たりにして、デンジは「スゲえモテてるう~…!」と喜びをあらわにし、「ホントは毎朝ぁあ ステーキとかっ食いてえんですっ!」「10人くらい彼女ほしい‼」「たくさんセックスしたいい‼」と欲望を爆発させる*25。
しかしその願望のなかに、マキマの存在は介入しない。むしろその願望を叶えるには、マキマは邪魔者となる。だからデンジはマキマを殺す方法を考える。そのようなデンジの姿勢は、愛する存在に食べられることを「それほど光栄な事はありません」と言い切るマキマとは対照的である。デンジには食べる愛はあっても、食べられる愛はないのである。
あるいは映画についての問答も、デンジがありのままのマキマを「好き」でない証拠と言える。「面白くない映画はなくなった方がいい」というマキマに、デンジは「じゃやっぱ殺すしかねーな」と応答する*26。「糞映画」を愛せないありのままのマキマを、デンジは拒絶するのである。
3.4. ラストシーンへ
以上のことから、やはりデンジが「好き」と言っているのは、「種明かし」をした後のありのままのマキマではなく、それ以前の演じられた「マキマ」であると考えられる。
しかしそうなると、問題となるのはやはりマキマを食べるラストシーンである。デンジがありのままのマキマを「好き」でないのならば、そこで語られていた「愛」、食べて一つになるほどの「愛」とはいったい何なのか。
そこでわれわれはいよいよラストシーンの解釈へと移るわけだが、その前に、ひとつ補助線を引いておきたい。そこで補助線となるのは、ウニカ・チュルンの小説『暗い春』である。一見『チェンソーマン』となんの関係もないように思えるこの小説が、ラストシーンを読み解く重要な鍵となるのである。
3.5. 「イメージ」を食べる
『暗い春』は、ドイツの作家ウニカ・チュルンによって書かれた自伝的短編小説だ。それは彼女が精神病院に入院したあとに書かれた幼年時代の思い出なのだが、そこには当然、いくらかのフィクションも含まれている。
注目したいのは、主人公の少女ととある男とのエピソードだ。主人公の少女はある夏、プールでその男を見とめ、「この男の人を、深い、ひそかな愛の対象に選び出す」のだが、「彼は彼女を見ないし、彼女を知らない」*27。
つまり少女は男をまなざすのだが、それは彼が彼女をまなざさない限りのことである。男が少女をまなざすところを想像すると、「彼女は彼のまなざしに堪えられないのではないかと思う」*28ほどである。だから彼女が彼に近づくときには「注意をひかないように用心深く」するし、「彼は彼女にとって到達できないものだ」と感じる*29。
つまり少女は男を愛しているのではなく、男のイメージを愛しているのである。だから彼女は男の絵を描いて「この絵は彼女が一生懸命に画いたので、この肖像はよく似ている」と思う*30。彼女の理想の彼は、彼女のなかのイメージでしかないのだから、似て当然なのだ。
極めつけは終盤のとある場面だ。やっとのことで男の写真(まさに男の「イメージ」である)を手に入れた少女は、その写真が(家族などの)誰にも見つからない方法についてあれこれ思考する。机のなかでは見つかってしまうし、壁紙の裏も、張り直したり塗り直したりすれば見つかってしまう。
そこで彼女は、たったひとつの冴えたやり方を思いつく。
彼女は写真を口に入れ、たんねんに噛んで呑み下す。彼女は彼と合一したのだ。
(ウニカ・チュルン「暗い春」より*31)
その後、家族にプールへ行くことを禁止され、行き場を失った少女は死ぬことを決意する。その決意通り、彼女は部屋の窓から飛び降り、「まっさかまさまに落ちて頸を折る」*32。
3.6. イメージを愛でるために「イメージ」を食べる
以上のエピソードから読み取れるのは、少女はイメージをまなざし、イメージを愛し、イメージを食べた=合一したということである*33。
ひとつ意味深いのは、男を鮮明に映したはずの写真を飲み込んだということである。写真は、たしかに「イメージ」の一種ではあるが、イメージそのものではない。その意味では、少女はイメージの似姿を消したということになる。
しかしそれで良いのだ。というのも、やはり少女はありのままの男(に近い写真)を愛しているのではなく、男のイメージを愛しているからだ。だから彼女は、その写真を食べる前に模写している。そうして模写していると、「顔はだんだんよく似てくる」と言うのだ*34。つまりそれは、顔がだんだん彼女の思い描く(少女のなかでの男の)イメージに似てくるということにほかならない。
だからむしろ少女が写真を飲み込み、消化してしまうのは理にかなっている。写真という似姿を消化することで、自分の思い描くイメージの方を愛でることができるのだから。
さて、これで準備は整った。いまや言わんとするところは明らかなようにも思えるが、これでやっと『チェンソーマン』のラストシーンを解釈することができよう。
3.7. 「愛」とは何か
改めてデンジのまなざしについて振り返っておけば、そのまなざしはありのままのマキマではなく、「普通の生活」を与え、無条件に愛してくれるイメージとしての「マキマ」に注がれていた。
したがって、デンジが「好き」だというマキマはイメージとしての「マキマ」であるはずなのだが、そうなるとデンジがマキマを食べた後に言っていた「愛」がよくわからなくなってしまう。というのはデンジが食べたありのままのマキマをデンジは「愛」していないからである。
そこでわれわれは最初の問いに回帰する。その「愛」とは何なのか。食べてしまうほどの「愛」とはいったいいかようなものなのか。
こう答えよう。その「愛」とは、一貫してイメージとしての「マキマ」に注がれた「愛」であり、食べるという行為は、そのイメージを害するありのままのマキマをまなざさないための行為であると。
3.8. 食べるという盲目
見たくないものを見ないためには、大別して2つの方法がある。対象を自分から遠ざけておくか、対象との距離をゼロにするか(対象を消滅させることもこれに含まれる)の2つだ。
デンジの場合、後者をとった。食べるというのは、対象との距離をゼロにすることで、対象に盲目になるということにほかならない。
こうしてデンジは、『暗い春』の少女と同様のことを成し遂げる。デンジはいまや、自分の愛でるイメージを害するような対象(=ありのままのマキマ)を消化し、心のなかで理想の「マキマ」だけをまなざすことができる。
果たして、両者のまなざしは一方通行のまま終わる。デンジの奥にずっとチェンソーマンのイメージを思い描いていたマキマは、デンジそのものを見ることなく食べられる。他方、演じられたイメージとしての「マキマ」を愛していたデンジは、ありのままのマキマにまなざされることを拒否し、食べることで盲目になる。
「俺ん事なんて最初から一度も見てくれなかった」と嘆いていたデンジは結局、ありのままのマキマにも、そのマキマを見ていなかったということ自体にも、盲目になったのである。
おわりに ―― イメージとまなざしの世界 ――
『チェンソーマン』の世界は、ある意味ではイメージとまなざしの世界だ。
悪魔の強さは、その名前のもつイメージによって決まる。その悪魔が世界を脅かすのだから、世界の命運は、まなざされるそのイメージに左右されているとも言える。
しかしそれはヒーロー側にも適用される。チェンソーマンであるデンジは、人気になるほど弱くなるというジレンマを抱えている。しかしイメージに翻弄され、名声を選んだデンジは、マキマを「愛」で食す。
しかしその「愛」は、歪んだ、狂気的な「愛」だ。つねにマキマのイメージをまなざしてきたデンジにとっては、ありのままのマキマは、むしろそのイメージを害するものである。デンジは愛するイメージを守るために、ありのままのマキマを食した。対象とゼロ距離になるそのふるまいは、ある種の閉じた幸福だが、しかしやはり「盲目」ではある。
ただし、イメージに翻弄されるのはデンジだけではない。鑑賞者もである。デンジを主人公に据えた『チェンソーマン』というマンガの「カメラ」は、デンジを主役として映す。主役を主役として演出しているから、わたしたち鑑賞者のまなざしは誘導されてしまう。「カメラ」がある場所をまなざさない限り、わたしたち鑑賞者もまた、同じ場所をまなざせない。たとえば、「カメラ」が映さないデンジがマキマを解体する瞬間というのは、完全なブラックボックスとなっている。マキマは、果たして死に際に何と言っただろうか。デンジは会話もせず、黙々とマキマを解体したのだろうか。アホっぽいデンジのイメージに引っ張られたわたしたちは、それをまたイメージで補うしかない。
こうして見ると、『チェンソーマン』はかなり『ファイアパンチ』のテーマを踏襲しているように思える。どちらもイメージに(良くも悪くも)翻弄された人々を描いた作品だとすれば納得がいく。たしかにイメージは人を救いもするだろうが、それは他方で、すこし恐ろしいことでもある。イメージとしてしか他者をまなざせないのなら、本当の「外部」はどこにあるのか。われわれは『チェンソーマン』に、『ファイアパンチ』に、藤本タツキに、盲目になっていはしないか。
希望はある。デンジはナユタを他者としてまなざすことによって、マキマとの一方通行だった関係性を疑似的にやり直すことができるかもしれない。彼らは「抱きしめ」合うことで、いまや非対称性を抜け出してはいる。
しかし最終話の段階ではまだ、デンジはナユタにイメージとしての「マキマ」の影を見ている。それも、「噛む力」という視覚=まなざし以外の情報によって。
「デンジ君の目が見えなくなっても 私の噛む力で私だってわかるくらいに覚えて」*35
デンジを盲目にしたマキマの呪いは、いまだ解けずにいる。
【参考文献】
藤本タツキ『チェンソーマン』集英社, 2019-2021.
――, 『ファイアパンチ』集英社, 2016-2018.
――, 「スペシャルインタビュー」『このマンガがすごい2021』宝島社, 2021.
――, 「『チェンソーマン』藤本タツキインタビュー」(取材・文:立花もも)『ダ・ヴィンチ』第28巻第4号通巻324号, KADOKAWA, 2021年.
ウニカ・チュルン「暗い春」『ジャスミンおとこ』みすず書房, 1975年.
「文学としての人文知」第4回「イメージの歴史と文学」東京大学文学部フランス文学研究室/早稲田大学文学部フランス文学研究室主催, 2020年10月17日(本講演は書籍化を予定しており, 書籍化された際に詳細な該当文献を指示する. 差し当たっては座談会が以下にまとめられており、これを参考にした. blog 水声社 » 第4回 イメージの歴史:はじめに).
【関連記事】
*1:藤本タツキ『チェンソーマン』第10巻(集英社、2021年)第84話より. 以下『チェンソーマン』からの引用は書名を「CM」と略記し、巻数と頁数のみを記す.
*2:CM11, 97.
*3:CM11, 97.
*4:デンジやマキマが「まなざし」を向ける対象としては、当然その両者以外(たとえばアキやパワーなど)も考えられるが、本稿においてはデンジとマキマが対象になるような「まなざし」に考察の対象を絞ることとする.
*5:CM01, 02 ; CM08, 67 ; CM07, 61.
*6:CM06, 52 ; CM08, 70.
*7:CM11, 97.
*8:CM11, 97.
*9:CM05, 39.
*10:【チェンソーマン考察】『1984』(ジョージ・オーウェル)との関連について - 野の百合、空の鳥参照。
*11:たとえば印象的な場面として、プリンシに「呼べ」と命令する場面や(CM08, 66)、天使に「私に全て捧げるといいなさい」と命じる場面(CM09, 75)、デンジを犬扱いして「お手」や「ゴロン」と呼び掛ける場面(CM10, 81)などが挙げられる。
*12:CM10, 84. ただし, 「崇拝」という言葉は作中には登場しない. それは『チェンソーマン』においては「神様」という概念が意図的に排除されているからだろう. これに関して藤本タツキは、「この作品に派、いろいろと出てこないものがあるんですよ。たとえば”神様”という単語は作中で一度も使っていないはずなんですけど、特定のもの(や概念)を意図的に排除しています」と語っている(「スペシャルインタビュー」『このマンガがすごい2021』宝島社, 2021, 21頁).
*13:CM11, 95.
*14:詳しくは拙稿ファイアパンチ考察 ――嘘と演技となりたい自分―― - 野の百合、空の鳥を参照されたい. 本稿ではイメージに翻弄されることの肯定的な側面にはあまり触れていないが, 当然イメージや演技によって救済されるというような方向性もありうる. 作中ではとくにそれが「なりたい自分になって」や「人はなりたい自分になってしまう」といったメッセージ, それからアグニたちの物語によって示されていた. それも含めて上記の記事を参考にされたい.
*15:CM10, 84.
*16:「『チェンソーマン』藤本タツキインタビュー」(取材・文:立花もも)『ダ・ヴィンチ』第28巻第4号通巻324号, KADOKAWA, 2021年, 77頁.
*17:CM07, 53.
*18:CM11, 89.
*19:CM11, 92.
*20:CM11, 94.
*21:CM10, 82.
*22:当然ながらすべての親が無条件に子どもを愛するわけでもないし, 「母性」なるものがありうるかも怪しいが, 少なくとも藤本タツキは, マキマの名前が木を切るチェンソーで「キ」を切って「ママ」になることに由来することに関して, 「母性」というものを以下のようにとらえている. 「孤児院のドキュメンタリーを観ると、子どもたちのほとんどが母親を待っているんですよね。高校生くらいになっても、ずっと。母親がどういうものかも知らないはずなのに、身近な女性……たとえば寮母さんに母親像を重ねている。その人が仕事をやめて去るとなったとき、いつもと変わらず明るくふるまっていても、日記に『行かないで』とびっしり書き込んだりするんですよ。自分だけを愛してくれる母性みたいなものを、子どもは与えられない限りずっと求め続けるのかなあと思ったのを、デンジのキャラクターに重ねました」(「『チェンソーマン』藤本タツキインタビュー」『ダ・ヴィンチ』第28巻第4号通巻324号, 78-79頁).
*23:CM11, 93.
*24:背景のマキマのイメージの出典は右から順に CM08, 66 ; CM01, 02 ; CM10, 80 ; CM03, 22 ; CM10, 80 ; CM01, 01 ; CM02, 12 ; CM05, 39 であり, やはりいずれも、マキマが「種明かし」をする話(CM10, 82)以前のものである.
*25:CM11, 93.
*26:CM11, 93.
*27:ウニカ・チュルン「暗い春」『ジャスミンおとこ』みすず書房, 1975年, 258頁.
*28:同上書, 262頁.
*29:同上書, 260-261頁.
*30:同上書, 263頁.
*31:同上書, 272頁.
*32:同上書, 276頁.
*33:イメージを食べるということに関して, パトリック・バウアーが「像嗜食(イコノファギー)」と呼ぶ概念が想起される. たとえば聖体拝領などがその典型だとされる. 日本語で読める文献としては以下を参照されたい. 田中純「アビ・ヴァールブルクによる歴史経験――イメージ学と歴史理論の接点をめぐって」『イメージ学の現在 ヴァールブルクから神経系イメージ学へ』(東京大学出版, 2019年).
*34:同上書, 271頁.
*35:CM02, 12. 強調筆者.