野の百合、空の鳥

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<お知らせ>と<おまけ>

<お知らせ>

 私事で多忙のため、9月と10月のブログ更新をお休みさせていただきます。

 いつもお読みになってくださっている方々にはたいへん申し訳ありません。

 ブログ更新の再開は11月の初旬を見込んでおります。

 何かありましたら、Twitterの方でお知らせいたしますのでよろしくお願いします。

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<おまけ>

 そういうわけで、今回のメインは上記のお知らせなのですが、そのお詫びもかねて(?)、私的に書いた過去の文章を<おまけ>として投稿します。

 内容としては、「人間と動物」をテーマにして、伊藤計劃『ハーモニー』を題材に、ジョルジョ・アガンベン『開かれ』という本を足掛かりに考察したものになります。

 アガンベンの『開かれ』を読んでいることが前提となっている文章なので、読んだことがない方にはわかりにくいかもしれませんが、前半部分はとくに『ハーモニー』の解説に過ぎませんし、言っていることもそんなに難しくはないと思います……。

 というより、論考として完成度が低いので、もともとはこれをリメイクして、わかりやすく噛み砕いてブログに載せる予定だったのですが、いかんせん忙しくてできそうもないので、この機会に原文を載せることにした次第です……。

 ご興味がありましたら読んでいただけると幸いです。もしまた機会があったら、アガンベンの思想や『ハーモニー』についてブログで触れたいです。(とくに『ハーモニー』は好きなので何かしら考察を載せたいです。)

 

 

『ハーモニー』における意識が消滅した人間について

――アガンベン『開かれ』を手掛かりに――

<要旨>

 本稿では、伊藤計劃のSF小説『ハーモニー』(ハヤカワ文庫,2014) における「意識が消滅した」人間という存在について、ジョルジョ・アガンベンの『開かれ』(岡田温司・多賀健太郎 訳,平凡社, 2011) を手掛かりにして、「動物/人間」という観点から考察を加えてゆく。その際とくに、「意識が消滅」する状態とはどのような状態なのかを確認しながら、「放心」、「恍惚」、「倦怠」などを手掛かりにして、意識が消滅した人間と動物、ないし意識が消滅した人間と人間との差異を考えてゆく。

 

Ⅰ. はじめに

 「意識がなくなると、どうなるの。ぼーっとして一日中椅子に座っているわけ」

 「いいや、買い物、食事、娯楽、すべてが自明に選び取られる、ただそれだけだ。選択を必要とするか自明であるか、それだけなんだ、意識の動かす世界と意識のない世界を分かつものは。人間はね、意識や意志がなくともその生存にはまったく問題ないんだよ。皆は普段通りに生活し、人は生まれ、老い、死んでいくだろう。ただ、意識だけが欠落したそのままで。」

 (伊藤計劃『ハーモニー』(ハヤカワ文庫,2014) p264より)

 意識がなくなったその人間は、はたして「人間」と言えるのだろうか。『ハーモニー』において意識のなくなった人間(以下では『ハーモニー』における意識のなくなった人間を<ハーモニー的人間>と記すことにする)は、「しないこと」ができるとも、「しないこと」ができないとも、何とも言い難い存在である。ただ彼ら<ハーモニー的人間>においては、「すべてが自明に選び取られる」。とするならば、それは(アガンベンを通した)ハイデガーが考えた「動物」に何か似通ったものがあるのではないだろうか。「本質上、放心して、完全にみずからの抑止を解除するものにとらわれているがゆえに、動物は、この抑止解除するものに対して、真の意味で、行為 (handeln) したり、行動 (sich verhalten) したりすることはできず、ただ振舞うこと (sich benehmen) ができるだけである」*1というその動物に。そう考えたことが、この論考を書こうと思った端緒である。

 しかしもちろん慎重にならねばならない。ハイデガーの「動物」には、それに対するものとして「抑止解除するもの」があって、それに対して「ただ振舞うこと」ができるだけであるが、<ハーモニー的人間>にはそれがあるだろうか。つまり<ハーモニー的人間>にはハイデガー的「動物」の存在様態である「放心 (Benommenheit) 」があるのだろうか。そのようなことを含め、本稿全体の議論を進めていくためには、まず<ハーモニー的人間>についてより詳細に見ておく必要があるだろう。 

Ⅱ. <ハーモニー的人間>の定義

 <ハーモニー的人間>について語るには、まず『ハーモニー』の世界における社会的背景について述べておかねばならない。『ハーモニー』の世界では、2019年にアメリカ合衆国で発生した暴動を端緒として、世界規模で戦争と未知のウイルスが蔓延した「大災禍(ザ・メイルストロム)」と呼ばれる悲劇が起こっている。その反動により、世界では新たな統治機構「生府(ヴァイガメント)」の下で、高度な医療経済社会が築かれた。そこでは、人民ひとりひとりが公共のリソースとみなされ、社会全体が健康・幸福であることが目指された。そのような「生府」の推し進める「生命主義」は、管理社会を健康に特化する形で進化させたもののようである。例えば「生府」の下にある人民は、大人になると “Watch Me” と呼ばれるナノマシンを体に埋め込むことになるが、そのマシンは恒常的に体内を監視し、読み取られた生態データは定期的に生府に送信されている。

 そのような背景の中、「人間が再び非合理的な混沌に還ってしまうことのないよう」設定された「セーフティネット」こそが「ハーモニープログラム」である。*2「大災禍」を経験した者たちが、「生命主義」の風潮の中で、再び起こるかもしれない悲劇に備え、いざというときに人間の意志を制御できる状態にしておこうとしたわけである。仕組みは簡単で、前述した “Watch Me” という社会の健康のために生府下の人間ほぼ全員に埋め込まれたマシンに、あらかじめいざとなれば「中脳の報酬系を医療分子で制御」できるようなプログラミングをしておくだけでよかった。もちろん技術的には、作中でも何年も時間を要していたし、倫理的な問題はわきに置かれていたが、結局水面下で「ハーモニープログラム」は完成したのだった。そうして技術的には完成した「ハーモニープログラム」であったが、実験を重ねることで、ある「重大な副作用」に気が付いた。それこそが「意識の消滅」である。

 <ハーモニー的人間>に起こる「意識の消滅」というのは、完全にファンタジーというわけでなく、脳科学的な技術の産物として語られている。作中においては、<ハーモニー的人間>の「意識の消滅」は「報酬系が調和し、すべての選択に葛藤がなく、あらゆる行動が自明な状態」と定義される。すなわち、そこで問題となっているのは、脳の報酬系である。

 ここで言う「報酬」とは、要するに「人の各種行動や選択を動機づける、ご褒美」*3、あるいは「意識の関心を惹き、強く印象づける心理作用のこと」*4である。そして「この『報酬』の在り方を巡って、脳内にある報酬系のエージェント群が相互に意志によって選択されようとする過程が、葛藤や選択と呼ばれるもの」*5だ。作中では、そのわかりやすい例として、「ハトを使った実験で、今押せば十粒の豆を与えるボタンと、ある程度待ってから押すと三十粒の豆を与えるボタンを用意する」*6というものが挙げられている。もちろん今ボタンを押して十粒もらうハトのほうが多数派なのであろうが、中には「実際に三十粒を『待つ』ほうを選ぶハトもいる」*7のだと言う。そしてこの「意志」に関するモデルは、人間にも当てはまる。とりわけ人間の価値判断は、指数的な合理性ではなく、双曲的な非合理性だと言われる。つまり人間ははるか未来の「報酬」の価値よりも、現時点で享受できる「報酬」の価値をより高く評価するのである。

 この双曲的な非合理性の意志を、指数的な合理性のモデルに書き換えるプログラムこそが、「ハーモニープログラム」である。すなわち、<ハーモニー的人間>とは、完全に合理的な「意志」モデルを持った人間なのである。すべてが合理的な価値判断によるのならば、様々な欲求が報酬の在り方を巡って葛藤することはなくなり、「すべては自明に選び取られる」。したがってそこに意識が介在する必要はない。これが<ハーモニー的人間>における「意識の消滅」である。

 それは見方を変えれば「魂」がないとも言える。作中でも「ハーモニープログラム」に関する実験は「人間の魂をいじる」研究だとみなされている。それは裏を返せば、人間の「魂」は不合理な選択や葛藤にこそあると考えられているからだと考えられる。食欲、金欲、性欲、目の前の欲望にくらんだ人間は、ときに「人間らしい」と評されることもある。

 では、そんな「魂」とでも言うべきものを失った<ハーモニー的人間>は果たして人間と呼べるのだろうか?それは動物と何が違うのだろうか?

 

Ⅲ. <ハーモニー的人間>、人間、動物、それぞれの差異

 <ハーモニー的人間>と「動物」とは何が違うだろうか。以下では<ハーモニー的人間>と「動物」との差異を、『開かれ』のとくに第10章「環世界」以降を参照しながら考えてゆきたい。

ⅰ. <ハーモニー的人間>と「放心」――合理性という差異――

 まず、「放心」を存在様態としたハイデガー的な「動物」と<ハーモニー的人間>との差異を考えてみよう。私が本稿を考えるきっかけとなったのは、ほかならぬこのハイデガー的「動物」と<ハーモニー的人間>との間に何らかの類似性を感じたからであるが、<ハーモニー的人間>について詳細に述べた今、ハイデガー的「動物」と<ハーモニー的人間>との間に、明確な類似性を見出すのは難しいように思われる。

 たしかに、ハイデガー的「動物」が「抑止解除するもの」に対して「ただ振舞うこと (sich benehmen) ができるだけ」であるように、<ハーモニー的人間>も目の前の「報酬」に対して、ただ振舞うことができるだけだと考えることはできる。ただし両者は、その振舞いにおける合理性において異なると考えられる。すなわち、<ハーモニー的人間>の振舞いは、極度に合理的な振舞いであるが、ハイデガー的「動物」の振舞いにはそのような合理性は見られない。『ハーモニー』作中のハトの実験でも語られていたように、「動物」はむしろ、目の前の報酬に飛びつくという点において、非合理的な振舞いを見せる。

 あるいは、ハイデガーの視点から見ても、「動物」は必ずしも合理的な振舞いを見せるとは限らない。ハイデガーは、彼の考える「動物」の存在様態として「放心(Benommenheit)」を挙げているが、「放心」において合理性は担保されていない。例えばハイデガーは、「放心がけっして世界に開かれえないものであることを示す鮮明な例として」*8、ミツバチの実験を挙げている。その実験においては、ミツバチは目の前の餌にすっかり気をとられ、「放心」しており、口を開いた自分の腹部から蜜が漏れることを気にすることはない。<ハーモニー的人間>では、このミツバチのようにはならないだろう。というのは、やはり<ハーモニー的人間>が極度に合理的な意思決定をなすものだからである。もしも<ハーモニー的人間>が「ミツバチ」と同様の状態に置かれたなら、おそらく目の前の餌よりも、自分の生存に関わる腹の傷の方を優先的に気に掛けるだろう。

 以上のことから、ハイデガー的「動物」と<ハーモニー的人間>では、選択における合理性において決定的に異なると考えられる。したがって、ハイデガーの視点に照らせば、<ハーモニー的人間>は決して「動物」とは言いきれない。

 しかしながら私は、まだどうしてもこの<ハーモニー的人間>に、ある種の間隙が開かれているように思えてならない。というのは、『ハーモニー』において、一度は<ハーモニー的人間>になったものの、後に意識を取り戻した人間が放った、ある言葉がずっと気にかかっているからだ。「恍惚だった」というその言葉が。

ⅱ. <ハーモニー的人間>と「恍惚」――「恍惚たる忘我の境地」という結節点――

「恍惚だった、と『戻って』きたミァハは語っていたよ」

(伊藤計劃『ハーモニー』p.265)

 「ミァハ」とは、『ハーモニー』において「ハーモニープログラム」の実験段階で被験者となった人物だ。フルネームは「御冷(みひえ)ミァハ」と言い、そもそも彼女は近親相姦の反復による劣性遺伝の優勢化で「意識」がなくなった民族の下に生まれた。そんな境遇に生まれた彼女は作中で「後天的に」意識を獲得した人物として描かれ、その設定も興味深いのだが、それよりも興味深いのは前述した発言である。

 「ハーモニープログラム」の臨床実験で、一時的に<ハーモニー的人間>になって、「戻って」きたミァハは「恍惚だった」という感想を語る。その実験に立ち会った者曰く、「我々が意識を戻した後、ミァハはその間のことは何も覚えていない、と言った。ただ、ぼんやりとした幸福な世界に包まれて、恍惚だけを経験した」*9と言う。

 「ぼんやりとした幸福な世界に包まれて、恍惚だけを経験した」というのはまさに、アガンベンの言う「恍惚たる忘我の境地」*10にほかならないのではないだろうか。『開かれ』によれば動物は、「放心」において動物は世界に開かれていないという一種の根本的な気分といった様相を呈していた。だが、それにもかかわらず、「動物は全身をくまなく震撼させるよう曝されたまま、恍惚たる忘我の境地にあるのだ」*11。それはつまり、「露顕なき露出」であり、非暴露性に開かれているということでもあった。

 そしてその非暴露性への開かれこそが動物の特徴であった。したがって、もしも<ハーモニー的人間>がハイデガー的「動物」と似たような「恍惚たる忘我の境地」にあるのならば、そこに合理性が介在しているか否かの違いはあろうとも、ともに「露顕なき露出」の状態にあるという点において、両者は、存在自体は開かれていても「開かれ」を見ていないという点で類似していることになるのではないだろうか。すなわち、存在自体は開かれていても「開かれ」を見ていないものが動物であるとするならば、<ハーモニー的人間>はまさに動物であるということになりうるのではないだろうか。

ⅲ. <ハーモニー的人間>と「倦怠」 ――「露顕なき露出」に気づくか――

 しかしながら、やはり慎重にならねばならない。確かに動物は「恍惚たる忘我の境地」にあり、そこで「露顕なき露出」の状態にさらされている。しかしながら、それとよく似た状態に人間の「倦怠」があった。アガンベンに言わせれば、「倦怠」とは、「世界に対する人間の開かれと抑止解除するものに対する動物の開かれとがほんの束の間だけ踵を接しあう」*12操作の場であるのだが、<ハーモニー的人間>の「恍惚」は、この「倦怠」ではないと言い切れるだろうか。

 動物的な「放心」と人間的な「倦怠」との違いは何だっただろうか。アガンベンは「深き倦怠」の本質的な契機を二つ挙げる。第一の契機は、「退屈することによって、現存在から拒まれている何かへと引き渡される(ausgeliefert) 」状態であり、まさにこの契機において、現存在は「放心における動物のように露顕されざるもののうちにさらされる(hinausgesetzt) 」のであった。*13そして第二の契機は、「宙づりのままに保持されてある (Hingehaltenheit) 」ということであった。そしてまさにこの点に、アガンベンは動物と人間のある種の差異を見出している。すなわち、「放心において動物は、抑止解除するものとじかに関係を結び、抑止解除するもののうちに曝され麻痺させられるにもかかわらず、自己をそういうものとして露顕させることは断じてできなかった。まさしく特定の抑止解除圏との関係を宙づりにして不活性なものにすることが、動物にはできないのである」*14。言い換えれば、現存在とは、「退屈することを習得した動物、自己の放心から自己の放心へと覚醒した動物にすぎない」*15のである。自己が「露顕なき露出」に気づけるかどうか、それがここでは動物と現存在、ひいては動物と人間との差異として問題になっている。  

 では<ハーモニー的人間>はどうであろうか。はたして<ハーモニー的人間>は「露顕なき露出」に気づけるだろうか。考えるに、それは難しいのではないだろうか。そもそもなぜ現存在が「露顕なき露出」に気づけるのかというと、それは現存在が抑止解除圏との関係を宙づりにして不活性なものにすることができるからであった。<ハーモニー的人間>は、抑止解除圏との関係を宙づりにすることは難しいのではないだろうか。<ハーモニー的人間>においてはつねに合理的な意思決定がなされ、そこには選択も葛藤もなかった。しかしそれは抑止解除するものに対して、合理的な意思決定を常にしてしまうということではないだろうか。すなわち、それが合理的な決定ではあるにせよ、<ハーモニー的人間>は抑止解除するものに対して、何かリアクションせざるを得ないのである。言うならば、<ハーモニー的人間>は「しないことができない」。より正確に言うならば、「しないこと」もあるかもしれないが、それは合理的に判断した結果「しないこと」を「する」ということなのだ。

 以上のことから、<ハーモニー的人間>と人間・動物との差異が明らかになってくる。すなわち、<ハーモニー的人間>は、合理的な価値判断を下す点においては「放心」するハイデガー的「動物」と異なってはいるが、「恍惚」を感じるという点では「恍惚たる忘我の境地」にある動物と似通っており、しかしながら、「露顕なき露出」に気づくことができないという点においては「倦怠」の状態にある人間とも異なっていると考えられる。

Ⅳ. 魂のゆくえ

 以上、<ハーモニー的人間>についてジョルジョ・アガンベン『開かれ』を参考にしながら、考察を加えた。私の考える結論から言えば、<ハーモニー的人間>は「放心」や「恍惚」、「倦怠」といった観点から見ると、動物とも人間とも言い難い曖昧な存在ということになる。では、はたして<ハーモニー的人間>とはいったいどのような存在なのだろうか。

 本来ならば、ここからさらに議論を深め、バタイユを引き合いに出しながら<ハーモニー的人間>についてさらに考察を加える予定であった。<ハーモニー的人間>の特徴がとくに合理性にあり、しかも「恍惚」を感じるという点に着目してバタイユの『宗教の理論』やあるいは『至高性』を参照にしながら論ずるはずであった。しかしながら、それをするにはいかんせん分量がかかりすぎてしまう。したがって、本稿における<ハーモニー的人間>の考察はここまででご容赦願いたい。上述したことは今後の課題として、胸の内にとどめておきたい。

Ⅴ. おわりに

 人間と動物の違いとは何だろうか。いろいろと考えてみても、やはりそのような素朴な疑問が湧いてくる。

 <ハーモニー的人間>は動物と人間について考える、とても良い端緒となった。作中の人物たちが言うように、<ハーモニー的人間>に「魂」が抜けているというのは、どことなく納得できる話ではある。しかしもちろんそうは思わない者もいる。そういう人に話を聞くと、何なら<ハーモニー的人間>になりたいと、純粋な答えが返ってくる。何一つ葛藤のない「恍惚」の世界は、人によってはユートピアなのかもしれない。私もまったくそう思わないわけではないが、どこか物足りなさは感じてしまう。だから『ハーモニー』の結末は、何度読んでもじわじわと真綿で首を締められるような、そんな感覚を覚えさせるのだろう。『ハーモニー』は、人類のハーモニクスが完了した後、以下のような言葉で幕を閉じる。

 いま人類は、とても幸福だ。

 

 とても。

 

 

 とても。

 (伊藤計劃『ハーモニー』 p.364)

 

<参考文献>

伊藤計劃『ハーモニー』(ハヤカワ文庫,2014)


ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

ジョルジョ・アガンベンの『開かれ』(岡田温司・多賀健太郎 訳,平凡社, 2011)


開かれ―人間と動物

*1:[1]ジョルジョ・アガンベン『開かれ』岡田温司・多賀健太郎 訳 (平凡社, 2011) p.91

*2:[2]伊藤計劃『ハーモニー』(ハヤカワ文庫,2014) p.254

*3:[3]同上 p.169

*4:[4]同上 p.234

*5:[5]同上 p.234

*6:[6]同上 p.233

*7:[7]同上 p.233-234

*8:[8]ジョルジョ・アガンベン『開かれ』岡田温司・多賀健太郎 (訳) p.92

*9:[9]伊藤計劃『ハーモニー』 p.265

*10:[10]ジョルジョ・アガンベン『開かれ』岡田温司・多賀健太郎 (訳) p.110

*11:[11]同上p110

*12:[12]同上p111

*13:[13]ジョルジョ・アガンベン『開かれ』岡田温司・多賀健太郎 (訳) p.116~117参照

*14:[14]同上 p.122

*15:[15]同上 p.126