野の百合、空の鳥

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ゼロから見直す『輪るピングドラム』②「蠍の火」とは何か【1~3話】

①↓より続き

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Ⅳ. 「蠍の火」とは何か


新編 銀河鉄道の夜 (新潮文庫)

ⅰ. 『銀河鉄道の夜』における「蠍の火」

「蠍の火」は、ジョバンニたちと一緒に列車に乗っていた女の子がお父さんから聞いた話として語られます。少し長いですが、重要なので引用します。

「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さん斯(こ)う云ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見附(みつ)かって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命遁(に)げて遁げたけどとうとういたちに押さえられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈りしたというの、
 ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉(く)れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸いのために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰おっしゃったわ。ほんとうにあの火それだわ。」

(宮沢賢治『銀河鉄道の夜』(青空文庫)より引用)

今までいろんな生き物をエサにしてきた蠍は、いざ自分が命を狙われる側になったときにはあっけなく井戸に落ちて死んでしまいます。そのとき蠍は、こんな無駄に命を捨てるくらいだったら、他の生き物に命をあげた方がましだったと考えます。そこで、「みんなの幸いのために私のからだをおつかい下さい」と祈ると、自分の体がまっ赤に燃えて、闇夜を照らした、それが「蠍の火」というわけです。

ここでのポイントは、蠍が「みんなの幸いのために私のからだをおつかい下さい」と申し出た点です。なぜなら『銀河鉄道の夜』の主題の一つが、主人公のジョバンニのセリフにある「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」に答えることにあると考えられるからです。

 

Ⅴ. 「子供」は『銀河鉄道の夜』をどう解釈したのか

ⅰ. 「愛の話」

ここまでくると、ピンドラの「子供」が『銀河鉄道の夜』をどう解釈したのかがわかってきます

確認すると、「子供」は、

  • 「苹果は愛による死を自ら選択した者へのご褒美」と考えている
  • 「死んだら全部おしまい」ではなく、「むしろそこから始まるって賢治は言いたいんだ」と考えている
  • それらは「愛の話」だと考えている

のでしたね。

なぜ「死んだら全部おしまい」ではなく、「むしろそこから始まる」のかと言うと、自ら死を選択したとしても、それによる愛が愛する者たちを「幸い」にするからです

それはちょうど、「みんなの幸いのために私のからだをおつかい下さい」と願った蠍が、自分の体が燃え続けたとしても、他者たちを明るく照らし続けていることと重なります。

そう考えているから、「子供」はこれを「愛の話」と捉えているのではないでしょうか。つまり、「子供」は『銀河鉄道の夜』を、自己犠牲を伴ったとしても、自ら死を選んだ者の愛が愛する者に降り注ぎ、その愛する者を「幸い」にする物語だと解釈したと考えられます。

 

ⅱ. 自己犠牲を伴うほどの「愛」は「幸い」なのか?

「子供」はそう解釈していると考えられるわけですが、私はうまく納得できません。というのは、やっぱり自分の大事な人が死んだら全然「幸い」じゃないと思うからです。

同級生のザネリを助けて死んでいったカンパネルラも、作中で同じようなことを気にしています。

「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。」
(中略)
「ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸さいわいになるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう。」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえているようでした。
「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの。」ジョバンニはびっくりして叫さけびました。
「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。」カムパネルラは、なにかほんとうに決心しているように見えました。

(宮沢賢治『銀河鉄道の夜』(青空文庫)より引用)

愛する「おっかさん」は、自己犠牲をして死んでいった自分を「ゆるして下さるだろうか」とカンパネルラは思い悩むわけですが、最終的には「ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸せなんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う」と結論付けています。

カンパネルラはそう思っている(あるいはそう自分に言い聞かせようとしている)のですが、私はホントか?と思ってしまいます。

果たして自己犠牲をしていいことをしたとして、それは「幸い」なのでしょうか?やっぱり私はジョバンニの疑問に戻ってしまいます。「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう」という疑問に。

 

 

Ⅵ.「苹果」と「蠍の火」に残された解釈の余地

ⅰ. 『ピンドラ』という眼鏡を通じてみた『銀河鉄道の夜』

以上、1st station における「子供」の言葉を手掛かりに「苹果」「蠍の火」について考えてきました。

大事なことは、『ピンドラ』でされている『銀河鉄道の夜』の解釈はあくまで『ピンドラ』なりの『銀河鉄道の夜』の解釈であって、一般的な『銀河鉄道の夜』の解釈ではないということです。

ややこしいのですが、『ピンドラ』を考える上では、あくまで『ピンドラ』を介した『銀河鉄道の夜』の解釈を考えなければならないということです。

 

ⅱ. 「苹果」と「蠍の火」に残された解釈の余地

ただ、そうは言ってもある程度『銀河鉄道の夜』を読み込むことは必須で、「苹果」と「蠍の火」に関してはもちろんのこと、「ほんとうのさいわい」についてもっと考える必要があるように思います。

例えば「リンゴ」が文学作品や映像作品に出てきたら、(経験則では)半分以上はアダムとイヴの「エデンの園」の話と関わっていると思われます。

『銀河鉄道の夜』でも、作中に十字架が出ていることなどから、キリスト教的な解釈が可能なのですが、それを書いている余裕は今回はなかったので、必要ならまた次回以降書いていきたいと思います。

 

ⅲ. 『ピンドラ』という原罪の物語

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プリンセス・オブ・ザ・クリスタルが冠葉の胸から赤い球体を引き出している(『輪るピングドラム』1st stationより)©ikunichawder/pingroup

『ピンドラ』自体を見ても、「リンゴ」はあながち「エデンの園」と無関係ではないようにも思えてきます。なぜなら『ピンドラ』は両親が背負った「原罪」を子が贖(あがな)う話だと読むことができるからです。

第一話でもかなりきになるカットがあって(上画像)、24話で「ピングドラム」だと言われるものに似た赤い球体を、プリンセス・オブ・ザ・クリスタルが冠葉の胸から引き出しているのですが、これはどういうことなのでしょう?

単純に「原罪」を引き出したということのメタファーなのかななどと思ったりもしたのですが、ここはもう少し先をみないとわからないとも思いました。

これは今後の課題として残しておきたいなと思います。

 

Ⅶ. おわりに

コンパクトにまとめると言ったな、あれは嘘だ。

いや、ほんとにコンパクトに細切れに考察していくはずだったのですが、いつも以上の分量になってしまいまして、結局2つに分断するという策に出てしまいました。

というかしょっぱなから「苹果」と「蠍の火」とか大きなテーマを書いちゃって大丈夫なんだろうか……と思ったけれど、出し惜しみする漫画とかはすぐ打ち切りになるのでこれでいいのだと、思っておきます。

あと【1~3話】とか言いながら結局1話の、しかも一部分の内容しか考察してないけど大丈夫なのか……?

などといっていると心配事はつきないのですが、とりあえずやってみるの精神でこれからも続けていきたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

P.S. 映画化も発表されたし、ぼちぼちこの企画再開したいです(希望的観測)(2021.4.29)→書きました!(2021.5.06)

 

【次回】