ハーゲンダッツ・ストロベリー
幹也「ストロベリー。ハーゲンダッツだよ。ほら、この前買ったやつは食べなかっただろう」
式 「イチゴがオレのイメージなのか?」
幹也「革ジャンとか。それにイチゴってバラ科の植物なんだよ。意外だろう。イチゴはかわいいなんてみんな思ってるけど、バラなんだから。……うん、やっぱり式だよ。」
(『空の境界』第一章「俯瞰風景」より引用*1)
こうして、イチゴのイメージとともにハーゲンダッツを渡された式は幹也に返答します、「食べない」と。
ところが「俯瞰風景」の中盤になると、式も結局はハーゲンダッツを食べ、第五章の「矛盾螺旋」にもハーゲンダッツは登場することになります。
今回はこの「ハーゲンダッツ・ストロベリー」に焦点を当てて、『空の境界』を考察したいと思います。
はたして「ハーゲンダッツ・ストロベリー」は、『空の境界』でどのような役割を果たしているのでしょうか?
第一章「俯瞰風景」での役割
幹也の語る式のイメージ
「ハーゲンダッツ・ストロベリー」は、初めの章である「俯瞰風景」、それもその冒頭のシーンで登場します。
式の家を訪ねた幹也は、式のイメージに合うからと、「ハーゲンダッツ・ストロベリー」を手渡します。
そのイメージとは、前述の通り、「イチゴはかわいいなんてみんな思ってるけど、バラなんだから」*2というもの。
「綺麗なバラには毒がある」などと言いますが、式にもバラのように少し怖い一面があると言わんばかりの幹也の言い回しに、式は少しふてくされ「食べない」と答えます。
ここで重要なのは、①「ハーゲンダッツ・ストロベリー」=「式のイメージ」という点と、②式のイメージを幹也が告げたという点の二点です。
この二点が、後々「ハーゲンダッツ・ストロベリー」が登場する場面で、うまく効いてきます。
片手で懸命にハーゲンダッツを食べる式
「俯瞰風景」中盤、巫条霧絵によって片腕を損傷させられた後、式は冷凍庫に入れっぱなしになっていた「ハーゲンダッツ・ストロベリー」を食べます。
ここで効いてくるのが、先ほどの②式のイメージを幹也が告げたという点です。
ストロベリーのイメージを告げたのが幹也だったからこそ、ハーゲンダッツ・ストロベリーを食べることで思い出されるのは幹也なのです。
幹也の意識が巫条霧絵にもっていかれたことで、いらだちをつのらせる式でしたが、片腕をもっていかれ、一度は戦いに敗れてしまいます。
そのような状況で帰宅した式は、ふと、冷凍庫からハーゲンダッツをとりだし、半ば乱暴に、しかし懸命にハーゲンダッツの蓋を開け、片腕でそれを食らいます。
この丁寧に描かれた一連の式の動作、そして涙をにじませているかのように見える式を見ていると、幹也のことを想う式の心情がひしひしと視聴者にも伝わってきます。
「いつになったら帰ってくるんだよ」、「手間かけさせやがって」、そんな式のつぶやきが今にも聞こえてきそうなくらいです。
要するにここでは、「ハーゲンダッツ・ストロベリー」を食べるという動作が、式の、苛立ち交じりの愛おしく思う複雑な心情を物語っているわけです。
この、はっきりとは言葉にできない複雑な心情を語らせるという点で、「ハーゲンダッツ・ストロベリー」の表現はうまいと言えます。
ハーゲンダッツを言い訳にする式
「俯瞰風景」のラストシーンでは、再び幹也が式の家を訪れています。
そこでは以下のような会話がなされます。
式 「幹也、今日は泊まれ」
幹也「は? なんでさ、突然」
式 「いいから」
幹也「いいよ、そりゃそっちの方が楽ではあるけど。それとも何か用事でもあるの?」
式 「ストロベリー」
幹也「は?」
式 「ハーゲンダッツのストロベリー。お前の分がそのままだ。始末してけ」
(幹也、冷蔵庫を確認する)
幹也「しょうがない、今日は泊まるよ。でもね式。始末しろ、はないだろ。その言葉遣いだけでもなんとかしてくれ。君は女の子なんだから」
(『空の境界』第一章「俯瞰風景」より引用*3)
「ハーゲンダッツ・ストロベリー」はここで、式が幹也を泊まらせるための言い訳(あるいは照れ隠し)になっています。
しかも、ここで幹也は冷蔵庫を覗くことによって、あれだけ「食べない」と拒否していたハーゲンダッツを式が食べたという事実をも知ることになり、それを食べたときの心情を、視聴者も、幹也と共に悟ることになります。
やはりここでも、「ハーゲンダッツ・ストロベリー」は言葉にならない幹也と式の心情を暗示させるものとして機能しています。
幹也は、おそらく式が照れ隠しとして「ハーゲンダッツ・ストロベリー」を用いていることを見抜いていて、「始末しろ」という「バラ」のようなとげとげしいイメージを否定し、式の「かわいい」一面も拾い上げるように優しく話しかけます。
つまり、最初のシーンでは、イチゴをバラ科と表現し、そんなイチゴのイメージをもつ式に攻撃的なイメージを与えておきながら、ラストシーンでは式を(幹也なりに)丁寧に扱い、式にイチゴの「かわいい」方のイメージを持たせているのです
この手のことを「真顔で言う」のが幹也の性分ですが、「バラ科」のイメージだった「ストロベリー」が、ここでは「かわいい」イメージに転覆させられているわけです。
「ストロベリー」をクールなイメージだけで使わず、いわば下げて上げるように、緩急をもたせて「かわいい」イメージも付与するというのがうまいところです。
以上のように「俯瞰風景」においては、「ハーゲンダッツ・ストロベリー」は主に、幹也と式との心情、そしてその心情のやり取りを引き立てる役割を果たしています。
しかし、これが第五章の「矛盾螺旋」になると、「ハーゲンダッツ・ストロベリー」の役割が少し変わってきます。
第五章「矛盾螺旋」での役割
「ハーゲンダッツ・ストロベリー」=「式」=「対極」
第五章「矛盾螺旋」になると、「ハーゲンダッツ・ストロベリー」は、より道具的な側面も持ち始めます。
例えば、「ハーゲンダッツ・ストロベリー」が「太極図」の形しているカットがあります。
「太極図」とは、本編から引用すれば以下のようなものです。
「太極図。白と黒の絡み合う半月が意味するのは、陰と陽、光と闇、正と負、男と女。そのどちらにもある小さな穴は矛盾を抱えた互いに相克する螺旋。これを、陰陽道では『両儀』と言う」
(『空の境界』第五章「矛盾螺旋」より引用*4)
要するに「太極図」は、式を象徴するものであるわけです。
「ハーゲンダッツ・ストロベリー」は、その「太極図」を暗示するにはぴったりの道具立てです。
なぜなら、「ハーゲンダッツ・ストロベリー」=「式のイメージ」だからです。
すなわち、「ハーゲンダッツ・ストロベリー」が「太極図」の形をしたとき、「ハーゲンダッツ・ストロベリー」も「太極図」も「式」を指し示していることになり、それは二重に「式」を暗示していることになるのです。
そのように、何重にも「式」を暗示させる効果を有すという点で、「ハーゲンダッツ・ストロベリー」の表現はうまいと言えます。
時間経過の表現
また、「矛盾螺旋」での「ハーゲンダッツ・ストロベリー」は、時間経過の表現にもなっています。
臙条巴が式の家に泊まるようになってから、式は毎日、なぜか(この理由は後で考察)「ハーゲンダッツ・ストロベリー」を買って帰ってきます。
「冷たいの嫌いなんだオレ」と言う式に代わり、買ってきたハーゲンダッツは、いつも巴が食べることになります。
そうして空になったハーゲンダッツの容器が、徐々にシンクにたまっていく様子が描かれることで、ハーゲンダッツは時間経過の表現となります。
時間経過の表現に関しては、他にも式の着けていた下着が積まれていくことや、何度もドアを開けるカットが挿入されることなどで効果的に描かれています。
ここでは「ハーゲンダッツ・ストロベリー」も、そのような時間経過を表現する道具立ての一つだと言えます。
「ハーゲンダッツ・ストロベリー」を買って帰る式
前述したように、臙条巴が式の家に泊まっている間(あるいは泊まっていないときにも)式は毎日「ハーゲンダッツ・ストロベリー」を買って帰ります。
まず、これは単純に、免許合宿で不在の幹也の穴を埋めるための代償行為だと考えられます。
幹也がいないことによる苛立ち、そして寂しさ(式は寂しいなんて無自覚かもしれませんが)が、彼女に「ハーゲンダッツ・ストロベリー」を買わせるのでしょう。
その証拠に、小川マンションの事件が終わり、幹也が帰ってくるラストシーンには、もはや「ハーゲンダッツ・ストロベリー」は登場しません。
当たり前のように思えるこの「ハーゲンダッツ・ストロベリー」の不在という事態は、しかし同時に、不在であること自体が意味をもっているいるのです。
「ハーゲンダッツ・ストロベリー」の不在
「矛盾螺旋」のラストシーン、鍵を使って家に入った幹也は、もはや「ハーゲンダッツ・ストロベリー」を持ってはいません。
この「ハーゲンダッツ・ストロベリー」の不在は、同時に2つのことを示唆しています。
一つは臙条巴の不在であり、もう一つは式と幹也の関係の発展です。
臙条巴が式の家にいたときには、何だかんだ巴がハーゲンダッツを食べ、空っぽの容器がシンクに積まれることで、彼の存在を感じることができたはずです。
ところがハーゲンダッツが不在の今、もはやシンクに空の容器がつまれることがない今、式は「巴の不在」をはっきり自覚することになるのではないでしょうか。
小説においては、巴の不在に対する式の想いが描かれています。
……ほんの一カ月前、こういう風景が日常だった
私は、かつてそこにいた一人の男の事を思い出す。
今はもういない。初めから、いなかったはずの同居人。
彼が消えただけで、わずかばかりの後悔がある。
胸の穴は埋まらない。どんなに小さい穴でも、空いてしまった穴は居心地が悪くてイヤになる。
そこで思ってしまった。
あの男が消えただけでこんなにも居心地が悪いのなら。今、目の前に座っている男を本当に無くした時、私は何を思うのだろう、と。
(奈須きのこ『空の境界 the Garden of sinners(下)』(2004,講談社) p127より引用)
このように、巴の不在を自覚した式は、同時に幹也の不在を想像するに至っているのです。
そこで式は幹也に言います、「オレ、おまえの部屋のカギ持ってない。不公平だろ、そういうのって」*5
こうして、「ハーゲンダッツ・ストロベリー」の不在は臙条巴の不在を指し示し、臙条巴の不在は幹也の不在を思い起こさせ、式は幹也との関係を一歩進めることになったのでした。
「ハーゲンダッツ」という道具立てのうまさ
今回は「ハーゲンダッツ・ストロベリー」から『空の境界』を考察しました。
まとめると、「ハーゲンダッツ・ストロベリー」は、式の微妙な感情を表現したり、幹也と式の関係性を暗示したり、時間経過や太極図を表現するうまい道具立てとなっていたと言えます。
式が片腕でハーゲンダッツを食べるシーンなど、原作にはないけれどアニメにはあるというシーンが、ハーゲンダッツ関連の場面だと多くあります。
おそらくアニメのスタッフのどなたかがこの「ハーゲンダッツ・ストロベリー」の演出を考えられたのでしょうが、幹也と式の関係が絶妙な具合で伝わってくるという意味で、非常にうまい道具立てだったと思います。
アニメ映画の『空の境界』では、そのように原作にはない道具立てが数多く登場するので、映像として見がいがあります。
特に「矛盾螺旋」では、螺旋関連の表現が多く見られる上に、時間と共に矛盾する演出がとても心地よいです。
改めて『空の境界』を見直すと、いろいろな発見ができるかもしれません。
『空の境界』に関しては、本当はもうすこし本質的な考察をしたかったので、また機会があればしたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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