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堀辰雄『燃ゆる頬』解説 「純文学」の読み方

 

純文学は読みにくい?

 純文学のイメージ

純文学と言われたら何をイメージするでしょうか?

多くの人は『こころ』『人間失格』『羅生門』といった有名な作品を思い浮かべるでしょう。また、人によっては「教科書に載っている」「堅苦しい」「重い」といったことをイメージするかもしれません。

純文学はそのように、いわば「読みにくい小説」というイメージがあるように思います。

なぜ純文学は読みにくいのか?

ではなぜ純文学「読みにくい」と思われるのでしょう?

私が思うに、純文学が「読みにくい」というのは半分は正しくて、半分は誤解されているように思います。

「読みにくい」にもいろいろあります。

まず単純に、使われている言葉が難しいだとか、文が詰まって見にくいだとか、ページ数が多すぎるだとか、いわば物理的な「読みにくさ」があります。純文学の中にも、そのように物理的に「読みにくい」ものがあります。ただ、多くの純文学の抱える「読みにくさ」は、そのような部類にはありません。

純文学にある「読みにくさ」は、いわば文学的な「読みにくさ」です。 何を言いたいのかわからない、なんでこんなこと書くのかわからない、といったよくある感想は、この文学的な「読みにくさ」に由来していると考えられます。

ではどうすればこの文学的な「読みにくさ」を解消できるのでしょう?

 

 

文学的な「読みにくさ」

この文学的な「読みにくさ」は絶対的な障壁ではありません。この「読みにくさ」は、文学的な読み方を知り、経験値を積むことで乗り越えることのできる壁です。

しかしたいていの場合、その乗り越え方は誰も教えてくれません。学校の国語教育は道徳のためのものであったり、論理的な論述のためのものであったりするからです。あるいは、幸運にも教養深い先生に会って教わったとしても、その技術は一朝一夕に身につくものではありません。

文学的な「読み」方を身に着けるには、多くの例を見て、自分でも実践してみるという地道な方法しかありません。

しかし裏を返せば、そのように地道な努力を積み重ねれば誰にでも「読む」ことが可能であるということです

今回はその一例として、堀辰雄『燃ゆる頬』を「読み」たいと思います。平易な文章で書かれていて、とっつきやすい小説だと思います。

またそれでいて文学的な「読み」もできるという今回のテーマにうってつけの作品です。

 

そこで早速『燃ゆる頬』を読解したいのですが、今回も内容や描写に直接触れながら「読む」ことをしていくので、できれば、あらかじめ『燃ゆる頬』を読んでいただきたいです。

堀辰雄 燃ゆる頬

↑ のリンクから無料で読めます。本のページにして11ページほど、時間にして20分もかからないくらいで読める短編です。Kindleなどでも無料でダウンロードできますので、ぜひ読んでみてください。

もちろん個人の自由ですので、記事を先に読んでしまっても構いません。楽しければ、OKです!

 

『燃ゆる頬』を「読む」

「少年時からの脱皮」の物語 


堀辰雄 (ちくま日本文学)

 『燃ゆる頬』は、一言で言うなら「少年時からの脱皮」の物語です。

『燃ゆる頬』には、表面上(あくまで表面上ですが)ボーイズラブに見えるような描写もあり、少年同士の関係が主題に大きく関わっているのは確かですが、それよりも「少年時からの脱皮」に主眼があります。

 

ではなぜ『燃ゆる頬』が「少年時からの脱皮」の物語と言えるのか? 一見謎に思える描写も、文学的に「読み」込んでいくと、丁寧な段階を踏んでいることがわかります。

以下で、内容に沿って詳しく見ていきましょう。

 

0. 用意されつつある「脱皮」

私は十七になった。そして中学校から高等学校へはいったばかりの時分であった。

端的ながら非常に巧い冒頭です。

主人公が17歳であることが印象的に映ります。

そしてこの17という絶妙な年齢が、少年から大人への曖昧な境界線になっていることが後々わかってきます。

そのような意味で効果的な冒頭です。

 

この冒頭に続き、序盤では「私」の少年性、そしてそこから背伸びする様子が描写されます。

例えば以下のような部分です。

私は彼等の中で一番小さかった。私は彼等から仲間はずれにされないように、苦しげに煙草をふかし、まだ髭の生えていない頬にこわごわ剃刀をあてたりした。

以上のように、「私」は高校の寄宿舎の中で、着々と「少年時からの脱皮」の準備を重ねます。

このことを直接描写した以下の一文が重要です。

こうして私の脱皮はすでに用意されつつあった。そしてただ最後の一撃だけが残されていた……

「脱皮」とは「少年時からの脱皮」と直接書かれている通り、少年から成長することです。

では「最後の一撃」とは何か。

いったい何が「私」を少年から「脱皮」させるのでしょう?

 

1. 「受精した花」を「揉みくちゃ」にする

ある昼休み、「私」は花粉まみれになった一匹の蜜蜂が飛び立つのを見とめます。

どの花を選ぼうか迷う蜂を見て、「私」は突然、花が誘惑しているように感じます

……その瞬間だった。私はそれらの見知らない花がいっせいに、その蜜蜂を自分のところへ誘おうとして、なんだかめいめい雌蕊を妙な姿態にくねらせるのを認めたような気がした。

その後、蜜蜂はとある花にとまり、花は受精します。

それを見た「私」は、一見奇行とも思える行動に走ります。

私はそれを見ると、なんだか急に子供のような残酷な気持ちになって、いま受精を終ったばかりの、その花をいきなり毟(むし)りとった。(中略)しまいには私はそれを私の掌で揉みくちゃにしてしまった

なぜ「私」はこのような行動をとったのでしょう?

これを読み解くポイントは二つあります。

一つは誘惑したかのように見えた花が受精したこと、もう一つは「私」がそれを揉みくちゃにしたことです。

「受精」というのは「性」が顕著に表れる現象ととれます。

さらに「私」は、花が姿態をくねらせ、まるで「自分のところへ誘おう」としているように感じています。

すなわち、ここで花はむき出しの「性」を表している、と考えられます。

そして「私」はその「性」をむき出しにした花をむしりとって揉みくちゃにします。

「毟(むし)りとった」、「揉みくちゃ」という表現はかなり荒々しく、対象への衝動的な嫌悪を表していると考えられます。

以上のように考えると、花を揉みくちゃにしたという行為は、「私」がむき出しの「性」を衝動的に嫌悪したことの暗喩と解釈できます。

 

また、これを「少年時からの脱皮」の文脈で捉えると、「私」はまだ少年からぬけだせていない状態であると考えられます。

少年状態→むきだしの「性」を嫌悪している、というのは重要なポイントです。

 

2. 男性性が確立された魚住

花壇を見ていた「私」は、上級生の魚住に「顕微鏡をみせてやろう」と言われ、植物実験室に誘い込まれます。

 

ここでのポイントは、魚住が男性という性が確立された人間少年時を抜け出した人間として描写されていることです。

例えばそれは「私の倍もあるような大男」「毛深い手」、ギリシア彫刻の「円盤投手」に似ているなどの描写に見てとれます。

 

この大人の男性である魚住に促され、「私」は顕微鏡を覗きます。

しかし横目に魚住を見ていると、次第に魚住の顔が異様に変化しだしたことに気が付きます

この瞬間、「私」は先ほどの蜜蜂と花を思い出します。

私は何とはなしに、今のさっき見たばかりの一匹の蜜蜂と見知らない真っ白な花のことを思い出いした。彼の熱い呼吸が私の頬にかかって来た……

なぜここで蜜蜂と花のことが思い出されるのでしょう?

先ほどの文脈で言えば、蜜蜂と花は性が顕著に出たことの象徴でした。

したがって同様に考えれば、ここでも「性」が感じられるということになります。

 

では何に「性」を感じたのか?もちろんそれは魚住に、です。

要するに、ここで魚住は「私」を掘ろうとしていたのだと解釈できます。

魚住は、後の描写で分かることですが、少年視されている三枝とおそらく肉体関係を結んでおり、ホモセクシャルです。

それは三枝と「私」が親密になるにつれて荒っぽくなる魚住の様子からもうかがえます。

 

そうして「私」は魚住の熱い性的な呼吸を感じ、言い訳をつけて部屋を後にします。

大切なのは、魚住が男性性が確立された、少年を抜け出した存在として描かれていることです。

「私」はホモを嫌悪して逃げたのではありません。

ここはあくまで、大人の男性のむき出しの性欲を感じて逃げた、とするのが妥当でしょう。

これは後々の描写からも裏付けされます。

 

3. 薔薇いろの頬の所有者、三枝

五月、「私」の部屋に三枝(さいぐさ)という同級生が転室してきます。

三枝は「私」より一歳年上ながら、上級生から少年視されていることで有名です。

 

ここでの重要なポイントは、三枝少年性をもった人間として描かれていることです。「痩せた、静脈の透いて見えるような美しい皮膚の少年」といった描写は、まだ男性として確立していない、中性的なイメージを思わせます。

中でも重要なのは、三枝が「薔薇いろの頬の所有者」であるということです。

これはタイトルの「燃ゆる頬」に通じる描写です。

本編に何度か出てくる「頬」の描写を見ると、必ず「少年性」が発揮されているときに「頬」が赤らんでいることがわかります

すなわち、『燃ゆる頬』において赤らんだ頬は「少年性」の象徴として描かれているのです。

つまり「薔薇いろの頬の所有者」である三枝は、少年の象徴であると言えます。

 

三枝が転室した後のある晩、熱っぽさを感じた「私」は、三枝によっておでこに手を当てられ、脈拍をはかられます。

これをきっかけに「私」は三枝が気になりはじめ、しまいには「友情の限界を超えだした」ような関係になります。

このことから、このとき「私」は同性愛には嫌悪を抱いていないことがわかります。

これが、魚住の異様な顔を見て蜜蜂と花を思い出したあのときに、ホモではなくむき出しの「性」対して嫌悪を抱いたのだということの裏付けになります。

 

4. 脊椎カリエスの痕を撫でる

夏休み、「私」は三枝と共にある半島へ旅行します。

旅行初日の夜、宿屋のうす暗いランプの明かりの中で「私」は、三枝の脊椎が一ところだけ妙に突起しているのを見つけます。

脊椎カリエスの痕だというその突起を、「私」は象牙でもいじるように何度も撫でます

このお耽美な象徴的シーン、一見何でもないBL描写に思えます。

ただどうしても考えてしまうのは、脊椎カリエスの突起がペニスのメタファーなのではないか、ということです。

ここは解釈がわかれるところですが、個人的には五分五分だと思います。

まず忘れてはいけないのが、少年性を脱皮していない「私」は、むき出しの「性」に嫌悪を抱いているということです。

だから、三枝がすごく色気むんむんで迫ってきたとか、「私」がすごいその気で気持ちよくてホモセックスしちゃった、ということはないと思います。

もしあるとすれば、スキンシップをとっているうちに、ほんの少し興奮してしまって、じゃれあいのような形でペニスをさすったとか、その程度だと思います。

もちろん、ペニスを介したスキンシップがなかったということも十分あり得ます。

ただ、ここでもし脊椎カリエスの突起がペニスのメタファーだったならば、ラストの意味合いが少し変わってきます

これについてはまたラストで考えます。

 

 

5. 耳から離れない少女の異様な声

脊椎カリエスの突起を撫でた翌日、村の板橋で「私」は目つきの美しい少女を見とめます。

なんとかこの少女と話そうと試みる私は、しかし三枝に先を越されます。

そこで「私」は、三枝と話す少女が「異様な声」を発しているのを聞きます。

彼女の声は、彼女の美しい目つきを裏切るような、妙に咳枯れた声だった。が、その声がわりしているらしい少女の声は、かえって私をふしぎに魅惑した。

この声を聴いた後、「私」は三枝に「一種の敵意のようなもの」を感じ出します。

この後もこの声は「私」に残り続け、しまいには「私」の愛をも変えます

 

繰り返し出てくるこの「異様な声」とは何なのでしょうか?

これを解読するヒントが後の「異様な声」まわりの描写からわかります。

「異様な声」を読み解くヒントになる描写は二か所あります。

一つ目は、三枝からの「ラヴ・レタアのような手紙」に返事を出さなくなるようになるシーンです。

そこにはこう書かれています。

彼は屢(しばしば)、その湖畔に滞在中の私に、まるでラヴ・レタアのような手紙をよこした。しかし私はだんだんそれに返事を出さなくなった。すでに少女らの異様な声が私の愛を変えていた。私は彼の最近の手紙によって彼が病気になったことを知った。脊椎カリエスが再発したらしかった。が、それにも私は遂に手紙を出さずにしまった。

「異様な声」に愛の形を変えられた「私」は、三枝の病気が再発しても、手紙を無視し続けます

そして植物実験室に誘ってきた魚住も、「もはや私を空気を見るようにしか見なかった」と興味を失います。

 

二つ目のヒントは「私」の恋愛遍歴を表していると思われるシーンです。

そこにはこうあります。

――そしてその数年の間に、私はまあ何んと多くの異様な声をした少女らに出会ったことか!が、それらの少女らは一人として私をくるしめないものはなく、それに私は彼女らのために苦しむことを余りにも愛していたので、そのために私はとうとう取りかえしのつかない打撃を受けた。

これでもう「異様な声」の正体がつかめます。

「異様な声」とは男性を女性として誘惑する声、「私」を少年から大人に成長させる声です。

したがって三枝に感じた「一種の敵意」も嫉妬心だと解釈できます。

そしてここで異性への愛に目覚めた「私」は、数年の間に多くの「異様な声」をした少女らに出会います。

すなわち「私」は、異性との恋愛関係を結んでいくことになるのです。

こうして愛の形を変えた「私」は、少年から大人へと脱皮していきます

ただ、ここではまだ少年から完全に脱皮したわけではないと考えられます。

少年から完全に脱皮させる「最後の一撃」はいまだ残されたままです。

 

6. 「白樺」の少年が与えた「大きな打撃」

数年の後、結核を発症した「私」は、「白樺」というサナトリウムに入れられます。

そこで私は脊椎カリエスの患者である十五、六の少年に出会います。

三枝を彷彿させるその少年が日光浴を浴びながら「体のある部分」に見入る姿を見て、「私」は「大きな打撃」を受けます。

私は(中略)その少年が猿股もはかずに素っ裸になって日光浴をしているのを見つけた。彼は少し前屈みになりながら、自分の体の或る部分をじっと見入っていた

(中略)

そしてそれをもっとよく見ようとして、近眼の私が目を細くして見ると、彼の真黒な脊なかにも、三枝のと同じような特有な突起のあるらしいのが、私の眼に入った。

 私は不意に目まいを感じながら、やっとのことでベッドまで帰り、そしてその上へ打つ伏せになった。

(中略)

 少年は数日後、彼が私に与えた大きな打撃については少しも気が付かずに、退院した。

一見するとちんぷんかんぷんなラストです。

なぜ私は少年を見て、目まいを覚えるほど衝撃を受けたのでしょう?

「私」はいったい何に「大きな打撃」を受けたのでしょう?

一見謎に思えるラストも、今までの内容を踏まえれば「読む」ことができます。

 

まずは描写をよく読みましょう。

「私」が何を見て衝撃を受けたのかというと、少年です。

どんな少年か。

まず注目すべきは「彼は少し前屈みになりながら、自分の体の或る部分をじっと見入っていた」という点です。

ただ日光浴を浴びている少年を描写するだけなら、こんな文章は必要ありません。

裏を返せば、これが重要だということです。

では彼は自分の体のどこを見ていたのでしょうか?

それはおそらくペニスです。

それはまず、「前屈み」という姿勢から推測できます。

次に、ペニス以外に考えられる部位がない、という消去法からもそう言えます。

この物語で重要な体の部位と言えば、思い当たるのは「頬」と「脊椎」、「ペニス」くらいのものですが、「頬」と「脊椎」は前屈みで見ることはできません。

むきだしの「性」を嫌悪していたことや、「性」が一つのテーマとなっていたことなども総合的に考えて、ここはペニスを見ていた、とするのが妥当でしょう。

 

もう一つ注目すべきは、少年が三枝と同じ脊椎カリエスを患っているということです。「私」が目まいを覚える直前にも、「三枝のと同じような特有な突起のあるらしいのが、私の眼に入った」とあります。

つまりここで「私」は、少年を三枝に重ねていると考えられます。

 

ではペニスを見ている三枝似の少年を見ると、なぜ「私」が打撃を受けるのでしょう?

ここも解釈が分かれるところでしょうが、私は、「過去に三枝との同性愛的な関係を結んでいたことに違和感を抱く大人になった自分」を認識したからだと考えます。

まずペニスは、男性性の象徴だと捉えられます。

その男性性の象徴を見る三枝似の少年を見た「私」は、三枝も「男性」だったのだと認識したのではないでしょうか。

少女の「異様な声」を聞き、異性愛に目覚めた「私」は、おそらくホモでもバイでもない異性愛者なのでしょう。

三枝の死から数年が経ち、異性との恋愛を重ねた「私」は、病に倒れ、三枝似の少年を見ることで初めて、過去の自分の行為を客観視したのでしょう

そのときおそらく、「私」にとっては異性を愛することが「普通」になっていた、だからこそ過去の自分を省みて違和感を抱いてしまった

そしてそんな違和感を抱く自分がどうしようもなく大人になってしまったことを認識した

それらが相まって「大きな打撃」となったのではないでしょうか。

そしてこれこそが、冒頭で言われていた「最後の一撃」だったのではないでしょうか。「少年時からの脱皮」は、少年時の過去を振り返り、大人の自分を認識して初めて完全に成し遂げられたのではないでしょうか。

 

また、もし脊椎カリエスの突起がペニスのメタファーだったならば、このラストはより鮮烈になります。

もしも「私」と三枝の間にペニスを介した性交渉があったのならば、ペニスを見ている三枝似の少年を見たとき、「私」の頭には三枝と性交渉した過去のイメージが思い浮かんだことでしょう。

もし「私」が大人になって異性愛が「普通」だと考えていたなら、そのホモセクシャルな過去のイメージはよりショッキングに映るでしょう

もしそうならば、「不意に目まいを感じながら、やっとのことでベッドまで帰り、そしてその上へ打つ伏せになった」という強力な描写も納得がいきます。

 

また余談ですが、「白樺」というサナトリウム名も「読む」ことができます。

白樺の特徴は植物としては寿命が短いこと、そして皮がぺりぺりとむけることです。

寿命が短い白樺をサナトリウム名にするのは、そこに入った人間の寿命が短いことを案じさせます。

皮がぺりぺりむけるのは包茎ではなくなること、すなわち少年時からの「脱皮」を彷彿させます。

皮をむく、まさに「脱皮」ですね。

 

純文学を楽しむ

今回は『燃ゆる頬』を題材に、「純文学」を「読む」試みをしてきました。

何度か言っているかもしれませんが、楽しみ方は人それぞれなので、べつに「読まなくて」いいよ、という方はそれで構わないと思います。

ただ、「純文学」が意味わかんないから、とか、「読みづらい」からといって敬遠されるのは悲しいです。

「読む」ことが楽しい、おもしろい、そう思っていただける方が少しでも増えたらなと思って、私は記事を書いています。

 

また、解釈も人によります。

その解釈が妥当であるか否かという意味で正しいとか間違っているということはあるかもしれませんが、感じたことに間違いはありません。

読んだ時のなまの感想、個人の感想が大切だと、私は思います。

私も、「純文学」に限らず、様々なジャンルで、私なりの「読み」を書いていけたらなと思います。

 

今回もお読みいただきありがとうございました!