Ⅰ. アニメを「読む」
今回はアニメを「読む」ということについて書きたいと思います。
「読む」とはどういうことでしょう?
「読む」といえば、ふつうは本など書物を読む、というときに用いる言葉です。しかしここでの「読む」にはより広い意味合いがあります。
この「読む」ということを身に着けると、映像作品はもちろん、文学作品においてもその楽しみの幅が一段階広がることでしょう。
では「読む」とはどういうことか、今回はそれをアニメ『冴えない彼女の育てかた』第6話*1を具体例にとって述べていきたいと思います。
Ⅱ. 『冴えカノ』について
『冴えカノ』#6について
以下では『冴えカノ』#6を具体例として挙げるので、当然ネタバレを含みます。またもちろん、以下のことをより理解していただくためには、実際に映像を見てもらったほうがよいです。
したがって、できれば以下の文章は『冴えカノ』#6を見た後で読んでいただきたいです。ただ以下に『冴えカノ』の簡単なあらすじを書いておきたいと思います(視聴済みの方は読み飛ばしていただいて構いません)。
『冴えカノ』の簡単な紹介
『冴えない彼女の育てかた』、通称『冴えカノ』は、高校生の主人公安芸倫也を中心としたサークル "blessing software" がゲーム作りをするという物語です。
第6話は、いわゆる当番回で、高校生ラノベ作家の霞ヶ丘詩羽が、"blessing software" で制作中のゲームのシナリオについて衝突していた倫也と和解するというストーリーになっています。
その際重要なのは、倫也がサークルを結成する前から詩羽のファンであったこと、過去に詩羽とともにラノベのシナリオについて語り合い、最終巻のシナリオについていさかいがあった、ということです。
Ⅲ. 『冴えカノ』#6を「読む」
それでは『冴えカノ』#6を「読んで」いきましょう。
#6には読み解ける箇所が多くあるのですが、今回は一番わかりやすい電車の演出を例に、アニメを「読む」ことを実践してみようと思います。
電車の演出
#6では電車が頻繁に登場しています。頻繁に登場すると言っても、倫也や詩羽といった登場人物が電車に乗るというわけではありません。
では、何のために電車は描かれているのでしょう?
ともすれば見逃してしまいそうな演出ですが、電車は倫也と詩羽、2人の心模様に対応していると読み取れます。
具体的にどういうことか、以下で見ていきましょう。電車がはっきりと2人の心模様に対応しているシーンは全部で3つあります。
電車の演出①


まず初めは、倫也と詩羽がファミレスで語り合っているこのシーン。この場面は過去の回想で、詩羽(画面左)が書いたライトノベルについて、倫也(画面右)が熱心に語りかけています。
ここでは、詩羽の作品に熱烈な愛情を注ぐ倫也に呼応し、詩羽もリズミカルに足を揺らすなど、ご機嫌な様子です。その背後では、左から、そして右からも電車が到着し、同じ一つの駅に止まります。
これはまさに、2人の心が同じところに在る様子を表現していると読み取れます。つまりここでは、倫也と詩羽が心を寄せ合う↔電車が同じ駅に到着する、という対応になっていると言えます。
電車の演出②


2つ目は倫也が和合市で詩羽を探すこのシーン。
詩羽のいる場所の心当たりであるファミレスに着くものの、倫也の前に人影はありません。そして背後では、1本の電車が独りむなしく駅を発ちます。実はこのシーンの前に、詩羽はこのファミレスを訪れており、倫也はちょうど入れ違いのような形でここに行き着いています。
したがってここでの電車は、ファミレスをちょうど出発した詩羽を表していると言えます。あるいは、この席が過去に2人心を通わせた場であることに鑑みれば、電車は、今はもう過ぎ去ってしまった詩羽、あるいは倫也の思いを表現していると考えてもいいかもしれません。
まとめると、ここでは過ぎ去った詩羽↔過ぎ去る1本の電車、という対応関係があると言えます。
電車の演出③
3つ目のシーンは、過去に詩羽が未発表の原稿を倫也に読んでほしいとお願いをする場面。詩羽はここで、倫也に対して1人の人間として特別な感情を抱き、原稿を読むことを自分という人間を受け入れてくれることになぞらえ、暗喩として思いを告げています。
しかし、そんな思いが込められているとはつゆ知らず、倫也はここで「大ファンだから」と、あくまでファンであるという立場を誇示します。原作を読まない理由も、詩羽自身の書いた結末が読みたいからと明言し、ファンという立場を貫きます。
すなわち、ここでは詩羽と倫也の思いが食い違い、2人はすれ違います。そんな2人の思いを体現するかのごとく、背後では電車がすれ違っています。
つまりここでは、倫也と詩羽の思いがすれ違う↔電車がすれ違う、という対応が起こっているのです。
心と対応する「電車」
以上で見たように、『冴えカノ』#6において電車は、
- 倫也と詩羽が心を寄せ合う↔電車が同じ駅に到着する
- 過ぎ去った詩羽↔過ぎ去る1本の電車
- 倫也と詩羽の思いがすれ違う↔電車がすれ違う
というように、倫也と詩羽の心模様に対応しています。
つまり、冴えカノ#6において電車の動きは、一種の心理描写になっているのです。
電車1つをとっても、心を寄せ合ったり、一方が過ぎ去ったり、すれ違ったりと、様々な心のあり方を表現できることがわかります。なんとなく見ていると見過ごしてしまいそうな演出ですが、気づけるとより一層アニメを楽しめるのではないでしょうか。
ちなみに、近年においては『君の名は。』の新海誠監督も、同じような電車の演出を取り入れていました。
ただ、新海監督の場合、作品によって演出のいとが異なります。以前は「人と人とのすれ違い」に線路や電車の描写を多く用いていましたが、『君の名は。』ではむしろ、人と人を結ぶ線・縁として線路や電車、その他の直線・曲線(扉を開けるときに映るみぞ、髪を結う紐など)を描いていたように思います。
ともかく、電車には以上のように登場人物たちの心理を反映する効果もあるのです。
Ⅳ. 「読む」ということ
「読む」ことは可能性を開く
今回は『冴えカノ』#6の電車の演出について「読み」ましたが、このような「読み」はアニメや映画といった映像作品に限られません。文学作品などでも、そのような描写は頻繁に見られます。
ただ、どんな作品であっても、それは「読む」ことで初めて私たちに伝わってきます。だから私は、「読む」ことが幅広い分野で、幅広いものを対象に可能である、という意味を込めて、今回のような手法を「読む」と表現しています。
普段何気なく見ているアニメも、映画も、文学も、何か「読める」ことがあるのではないでしょうか。そして何かが「読めた」とき、それは私たちにとってさらなる楽しみになることでしょう。
「読む」ことは可能性を開く
「読む」ことは可能性を広げてくれます。作品をさらにおもしろく、楽しいものにしてくれます。私もこれからこのブログでほかにもいろいろな「読み」を書いて、少しでも「読む」ことの楽しさを伝えられたらなと思っています。
近年のアニメーションにはなかなか読める作品というのは多くないのですが、今日取り上げた『冴えカノ』などは、特に監督が絵コンテを担当なさっている回などで読める場面があります。1つ言うなら「帽子」というのがおもしろいモチーフとして機能していました。
他にもいろいろなアニメ、映画、文学を「読む」ことができるので、このブログでも順次紹介していきたいと思います。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました!
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*1:以下ではアニメ表記に基づき第6話を "#6" と表記する