ダリフラ考察の反省と今後の方針
とりあえずここから始めたいと思います。
今後もこのブログを継続させたい気持ちはあるのですが、もちろん書くことがありふれているわけでもなく、かと言って放っておくのももったいない気持ちもあり……
今後の指針を探るためにも、今ここで反省と今後のことを書きとめておきたいです。
ダリフラ考察反省
問題点
自分の考察の問題点は何と言っても、内容を推測しているように見える部分があるという点にまとめられるでしょう。ちんぷんかんぷんな推測には価値がないどころか、作品そのものをおとしめたり、視聴者に誤った印象を与える可能性があります。
初めは私も、できる限り本編から読み取れることを考えて伝えることに終始しようかと考えていました。
しかし、本編に沿って根拠に基づき内容を推測することも「考察」に含まれるのではないか、そしてその方が何よりおもしろいのではないかという考えに基づき、私はできる限りの根拠を添えて、それらを「考察」としてまとめることにしました。
これについては時間経過に伴って私の考えも変化し、初めはかなり推測に寄っていた記事も、後半では内容により忠実な「考察」に遷移させることを意識したつもりです。
しかし本当にそれができていたかどうかは疑問です。どこまでが「考察」でどこからが「推測」なのか、あるいは何が「考察」で何が「感想」なのか、この問題は常に私に付きまといました。
「作者の死」
「作者の死」という考え方があります。
「作者の死」とは、フランクスの哲学者ロラン・バルトが提唱した、物語の作者はその物語の解釈を決める最高権威ではないとする考え方です。バルトはこの考え方により、文章は作者の意図に支配されたものではなく、文章それ自体として読むべきだというテクスト論の創始者と呼ばれています。
よく「文系は作者の気持ちでも考えてろよ」という揶揄を目にしますが、「作者の死」はそのような揶揄を一蹴する考え方であるわけです。あるいは、「作者そこまで考えてないだろ」に対抗する考え方、と言ってもわかりやすいかもしれません。
要するに「作者の死」とは、作者の意図よりもテクストそれ自体から読み取れることを尊重しようという考え方だと言えます。
じゃあテクストから読み取れることならなんでも言っていいのかというと、そうではありません。
考察の「正しさ」とは?
バルト自身は「作者の死」ということを文芸批評というジャンルにおいて述べました。
批評とは一般に、物事のよしあしを判断して価値や評価を下すことです。
したがってそこで物事のよしあしを判断し、客観的に伝えるためには説得力が必要になります。
ではより説得力をもたせるにはどうすればよいかというと、客観的な根拠が必要になってくると考えられます。
したがって「作者の死」に従って、いくらテクストに忠実であっても、客観的な根拠、ひいては説得力をもたなければ、それは他者には理解してもらえないことにつながるわけです。
もちろん根拠がありさえすればいいのか?というと、それも説得力のある根拠が必要になるわけで、結局説得力のある根拠とは何か?という話にもなってきます。
今は長く語れないのでこれくらいにしておきますが、「作者の死」にも賛否両論あり、これらは批評についての難しい問題と言えます。
そして以上のことは私の「考察」でも同様です。
要するに、自分の「考察」をちんぷんかんぷんなものではなく、おもしろいものとして、より多くの人に納得してもらうためには、説得力とそれなりの根拠が必要になってくるわけです。
では実際「考察」は成功したか?
では実際のところ、私の「考察」はどうだったでしょうか?
まずはっきり言えるのは、私の「考察」は決して作者の意向だけに沿ったものではなかったということです。もちろん、私としては初めから作者の意向だけに従順であろうと考えていたわけではなく、「作者の死」に基づいて、ある程度自由な「考察」を展開したつもりでした。
しかしそこに十分な根拠と説得力があったかは定かではありません。
ライブ感
これにはまず、リアルタイムで、アニメの放映に寄り添いながら毎週「考察」を書いていたという事情が影響しています。
『ダリフラ』のライブ感よろしく、私の「考察」もライブ感のあるものになったわけですが、その代償として当然、「考察」の前後で整合性がとれていない部分を生み出すことになりました。仕方ないと言えば仕方ないのですが、言い過ぎたなと思う部分も多々あります。
また、このライブ感が、毎週何かしら書かなければならないという使命感が、「考察」を雑にしてしまったこともあったかもしれません。
それらが主に今回の試みで反省すべき点でしょう。
ただ、私の「考察」をちんぷんかんぷんな憶測ではなく、おもしろい「読み物」、しかも説得力のある「読み物」として受け取ってくださった方も中にはいらっしゃいました。少数かもしれませんが、これは記事自体も楽しんでいただきたいという私の意向に沿っていた点でも、成功だと言えると思います。
「作者の死」を離れる
また、「考察」の終盤には「作者の死」を少し離れて、作者の意向をくみ取ろうとする試みもしました。「生きるということ」や「人間らしさ」がそれに当たるのですが、もちろんここで書いたことが本当に作者の意向であったのかは定かではありません。
ただ、きちんとアニメの内容自体を受け取るという試みは、自分の感想を的外れなものにしないためにも、やはり必要だったと思います。
ブログという形式
また、ブログという形式自体も成功だったように思えます。
何度か述べたことですが、アニメにもいろいろな楽しみ方があります。考察を見たいという人もいれば、もちろん考察を見たくないという人もいます。
その点、ブログ形式ならば見たいという人が自発的に見に来なければ見られないので良かったのではないかと思います。
反省と改善
インターネットの発信力
反省は端的に言えば、テキトウに書きすぎるのはよくない、という感じです(あとライブ感も)。
おそらくリアルタイムでアニメを追いながら毎週考察するという試みは『ダリフラ』で最初で最後になるかと思います。負担が大きいというのもそうなのですが、毎週考察できるような題材があるとも限らないですし、記事自体もクオリティの低いものになりかねません。リスクの方が大きいのかな、というのがやってみての感想です。
それからインターネットは非常に発信力があるという感想も抱きました。ただ、そこには良い面もあり、悪い面もあります。
良い面としてあえて述べておくなら、それは感想が直接制作スタッフに届くかもしれないという点です。
何にしてもそうですが、感想というのは作品自体をも動かす力を持っています。一人一人の何気ない感想やつぶやきが誰かを突き動かすこともきっとあると思います。
日本のアニメーションがより良いものになるためには、いろいろな人が声を上げる必要があると、今回改めて感じました。
今後の方針
今後も特にアニメについての考察、特にアニメーションと他の分野が横断するような考察をしていきたいと思います。
特にアニメと文学、アニメと哲学が関わる考察をしていきたいという思いはあります。ただもちろんいつもアニメの話ばかりできるわけではないので、アニメ以外の話(文学や哲学の話、本や漫画の紹介等)もこのブログに書いていこうかなと考えています。
そのような話にご興味がありましたら、今後も読んでいただけると幸いです(おそらく更新日は毎週土曜の夜中ということになりそうです)。
今回でやっと本当にダリフラ考察を終えられた気がします。
もとはEDに感動して始めた考察でしたが、いつの間にか毎週リアルタイムで考察することになっていました。
もうその経緯を語るスペースはないのですが、それだけのエネルギーを『ダリフラ』がくれたと言えばそうなのかもしれません。
正直私は『ダリフラ』のこと好きではないけれど、そのことには感謝したい気持ちがあります。
今まで読んでくださった方々、本当にありがとうございました。
もしもまた読んでくださる方がいらしたら、またそのときお会いしましょう。
ありがとうございました。
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