「つながり」の断絶を生きるオトナたち
前回に引き続き、今回は『ダリフラ』の生物たちそれぞれの「生きる」ということを考察していきたいと思います。
特に今回は、ヒロやゼロツーたちと異なり、「つながり」を排したオトナたちの「生」を見つめていきたいと思います。
オトナ
「永遠の街」
オトナたちの生の実体が初めてあらわになったのが、第10話「永遠の街」でした。
そこで明らかになったのは、
- 以前は味覚を楽しんでいたが、今は体に必要なものを摂取すれば十分だと考えていること
- パートナーは便宜的なもので、生きるのに他人が必要なことを窮屈だと感じていること
- 脳の報酬系を活性化させ、快楽を得ている、幸福を人工的に摂取していること
でした。
もちろんこれはあくまで一例にすぎないのですが、後に明らかになった不老不死への移行過程などを見ていると、これが代表的なオトナの生の在り方と言っても間違いではないと考えられます。
「つながり」の断絶
一見淡泊なように思えるオトナたちの生において、前回見たようなヒロやゼロツーとの生で決定的に異なるのは、「つながり」が断絶しているということです。
不老不死により生殖機能も失われ、パートナーも便宜的なものであるということは、生殖としてのセックスばかりか、快楽としてのセックスも廃絶しているということを示唆しています。
オトナたちはそこで、肉の「つながり」も精神の「つながり」も、両方とも放棄してしまっているわけです。
「生きるための様々なことにいちいち他人が必要だなんて、とても煩わしいでしょ?」というセリフは「つながり」の希薄さを物語っています。
では、もはや人と人との間ですら生きなくなった「人間」は、いったい何のために生きているのでしょう?
オトナたちの「幸福」とは?
「つながり」を失ったオトナたちはそれでも幸福は摂取しています。
それではオトナたちは、その幸福のために生きているのでしょうか?
しかし、味覚を楽しむこともやめ、性的な快楽も求めなくなったオトナたちは、はたして何に「幸福」を感じるのでしょう?
食事や性、パートナーとの愉しみ以外に「幸福」と言われてパッと思いつくのは、例えば富とか名誉とかです。
ただ富や名誉も、突き詰めていけばほとんど個体の延命や人との「つながり」のためにあるものであって、不老不死を実現し、「つながり」を必要としないオトナたちにとって、富や名誉はもはや「幸福」のうちに入らないのではないかと考えられます。
富や名誉は、結局のところ、主に生きるのに必要な食べ物や環境を得るためであったり、他人と「つながる」ために欲せられることになります。
いや、富や名誉はそれ自体のために求めるためだ、という考えも確かにありますが、性の快楽や味覚の楽しみもない世界で、また死や老いを克服した世界で、富や名誉自体を幸福として追求できる人間はあまり多くはないだろうというのは想像に難くありません。
幸福とは何か、人類の永遠のテーマをここで語りきることは到底できませんが、オトナたちの幸福とは、ただ機械的に「報酬系を活性化させ」るだけの、物理的な快楽にすぎないのかもしれません。
ではなぜ幸福を摂取するのか?
ではなぜ、そんな物理的で機械的な快楽にすぎない「幸福」を摂取するのでしょう?
そもそもあの機械はどういう仕組みになっているのでしょう?
何か快楽を得る夢でも見せているのでしょうか?
例えばですが、オトナたちにどのような夢を見せれば快楽を感じてもらえるでしょう?
性的快楽はなくなっているわけですし、食の愉しみもないわけですから、何か具体的な快楽の夢を見せるのは難しいように思えます。
考えられるのは、例えば何の具体的な夢なども見せず、ただ自分の意識がないまま、機械的に報酬系だけが刺激されて快楽を本当にただ感じているだけの状態であるということです。
その場合、あの機械で幸福を摂取すること自体が「幸福」であるという、ある種の入れ子型のような「幸福」の在り方が可能になります。
ただ、もしそのようにあの幸福を摂取する機械自体が「幸福」だったとして、それが生きる理由になるでしょうか?
オトナたちが生きる理由
あんな機械が生きる意味だと言うのは、非常にむなしいように思えますが、案外それも的外れではないのかもしれません。
これは完全に私の、個人的な意見になってしまうのですが、オトナたちはかなり消極的な「生」を生きている、あるいは生きなければならなくなっているのではないでしょうか?
つまり不老不死を選択したオトナたちは、初めは理想として享受していた終わることない膨大な時間にわたる生を、次第に過ごしているうちに、ただ味気ない「幸福」でごまかしながら、何も考えずに「生きる」しかなくなっているのではないでしょうか。
やわらかく言えば、はじめは現世の楽しみが永遠に続くんだわーい、それっていいじゃんと思っていた人たちも、無限に続く時間を前に、なんかもう楽しみ尽くしちゃったし飽きちゃったなあみたいになっているんじゃないでしょうか?
不老不死になちゃったけど、もうやりたいこともない、他人と関わる必要もない、でも死ぬって無になることかもしれないから怖い、だから仕方なく生きるしかない、そんな人がたくさんいるのではないでしょうか?
あるいはもしかしたら、現世に飽きて自殺してしまったオトナというのもいるのかもしれません。
逆に考えれば、今あの世界に残って生きているオトナたちは、そんな一見「消極的な生」にも思える人生を大いに享受することができる人間だと言えるでしょう。
言い換えれば、それがオトナたちの生き様だ、と言えるでしょう。
以上のことはとても難しい話なのですが、コドモたちが「つながり」を求めていくのに対し、オトナたちが「つながり」を断絶する方向にあるという対比構造は、『ダリフラ』の中でも明確に打ち出されているように思えます。
ただ、不老不死で克服したはずの死についての問題も、「魂」というものを持ち出すことでより複雑になります。
「肉体」と「魂」
一つ、疑問に思うことがあるのですが、オトナたちは「魂」の存在を知っていたのでしょうか?
おそらく、知らないからこそ、不老不死になってもなお肉体にとどまり、ただ消極的な生を生きていたのではないかと思われるのですが、それではなぜVIRMははじめからオトナたちを肉体から解放させなかったのでしょう?
ただ単に肉体から魂を解放してくれることを願うのならば、オトナたちを支配し終えた時点で、さっさと魂を解放してしまえばいいはずです。
第15話ではプランテーションのバックアップ完了報告をし、オトナの魂を自由にできることを示唆し、また、第21話でも七賢人の魂と思われるものを抜き取ったりしているあたり、VIRMはもはやオトナたちの魂を自由にできる状態にあったはずです。
彼らはなぜ、タイミングを見計らったのでしょうか?
あるいは彼らの説く「魂」とはいったいどのようなものなのでしょうか?
これからの本編ではそれがより明らかになるかもしれません。
VIRMの語る「魂」次第では、先日考察まとめで語ったような、VIRMの理想の「宇宙の秩序」というものも見えてくるかもしれません。
今回はオトナの生の在り方について考察しましたが、やはり「つながり」を断絶した、不老不死の生き方というものは難しいものです。
それがいいという人もいれば、嫌だという人もいるでしょう。
オトナの生の在り方は、改めて私たちの生を見直すきっかけにもなります。
読者の方々はどのような「生」の在り方を理想としますか?
「つながる」方がよいでしょうか?それとも「つながらない」方がよいでしょうか?
あるいは肉体は必要でしょうか?それとも必要ないでしょうか?
本編で、「肉体を有した者たち VS 肉体を捨てた者たち」という最終決戦が始まる前に、いろいろと考えてみると面白いかもしれません。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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